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四旬節黙想会(2/17)

ユスト高山右近の列福に力を注いでいらっしゃる川邨神父様(大阪教区紀泉ブロック担当)のお話でした。
 

信仰年にあたり、私たちを神様のもとに向かわせるヒントをユスト高山右近の生き方から見つけては・・・との内容で歴史のお話もたくさん聞かせていただきました。

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動画はこちらから 川邨裕明神父講話 高山右近と大阪教区の歩む道  四旬節第一主日ミサ説教
 

ユスト高山右近の生涯

・1552年(天文21年)摂津、高山の地で、高山飛騨の守の長男として誕生。飛騨の守、奈良、沢城に移る。

・1563年(永禄6年)日本人修道士ロレンソ、奈良で結城忠正、清原枝賢(しげたか) と高山飛騨の守と宗論を行い、彼らを説得して改宗させた。飛騨の守受洗、洗礼名はダリオ。

・1564年(永禄7年)彦五郎(右近)、ロレンソから洗礼を受ける。洗礼名ユスト

・1568年(永禄11年)ユスト彦五郎(右近)、16歳で初出陣。

・1570年(元亀元年)高山親子は高槻城に居住した。高山右近、黒田ジュスタと結婚。

・1573年(天正元年)父から高槻城主を継ぐ。和田惟長事件、右近重傷を受ける。

・けがから回復した右近は、茶の湯を始め、千利休の七哲の一人となった。このころからキリスト教に傾倒する。

・1578年(天正6年)荒木村重事件 主君荒木村重が信長に謀反を企て、信長はオルガ ンチノ神父を派遣して右近に降伏するよう説得した。一方で、従わない場合は宣教師の虐殺と教会破壊の脅迫を行った。荒木村重のもとには、右近の妹と一人息子を人質にしており、さらに父ダリオが村重側について信長と戦うよう主張、通らなければ切腹すると右近に迫った。高槻城内は降伏するか戦うかで二つに分裂してしまった。この窮地に右近は、出家を覚悟し信長のもとに向かった。信長は、それを受け入れ、自分に従うように命令した。

・1580年(天正8年)右近、安土に自分の屋敷を建設すると同時に、教会堂とセミナリオの建設を援助した。

・1581年(天正9年)巡察師ヴァリニャーノ高槻において、復活と聖体の主日を荘厳に祝う。高槻のキリシタン、約1万8千人に。

・1582年(天正10年)本能寺の変で信長没した後、右近は羽柴秀吉のもとに駆けつけ、山崎の戦で先鋒を務め明智光秀軍を敗走させた。清洲会議に参加し、四千石を加増された。本能寺の変の後、動乱により安土城が焼け落ちると、安土にあったセミナリオ(神学校)を高槻に移転させた。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥、佐久間盛政の猛攻にあって中川清秀は戦死し、右近は羽柴秀長の陣まで敗走した。

・1585年(天正13年)明石城主に栄転

・1587年(天正15年)秀吉の禁教令 右近棄教を拒否、博多湾能古島を経て小西行長の領地、小豆島へ身を寄せる。翌年には熊本に。

・1588年(天正16年)前田利家に招かれ、金沢へ移り住む。以後26年平穏な生活。

・1614年(慶長19年)徳川家康の大禁教令。金沢から長崎まで移動、国外に追放される。フィリピンのマニラに船旅、高齢でつらい旅に、マニラで大歓迎を受けるが、1615年熱病のため死去。大きな葬儀。その後、モレホン神父によって最初の列聖運動が起こる。
 

(川邨神父配布の資料)

 

 

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