主の昇天
今日の第一朗読、使徒たちの宣教の言葉「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」この情景を想像してみましょう。弟子たちはどんな表情だったのでしょう?どんな目で天を見上げていたのでしょう?イエスが離れ去っていくので寂しかったのでしょうか?私は決して寂しい思いで天を見つめていたのではなかったと思います。それではどんな表情だったのでしょうか。
私は司祭として多くの人の死に接してきましたが、時々亡くなる前に静かな敬虔な、そして美しい表情を見せてくれた人たちがいました。そのような人たちの美しい表情のなかに天国と言われる永遠の生命の一端を見るのです。
私事になりますが、主の昇天の主日になるとよく亡くなった父親のことを思いだすのです。父は私が司祭叙階を受ける前の年に癌で亡くなりました。その時私は助祭で入院している病院の父に毎日ご聖体を授けに行っていました。亡くなる前日、即ち最後にご聖体を授けた後、父は何か気持ちよさそうな、感慨深げな、遠くを見るような目で私に「今天国のことを考えているんだ」と言って、おいしそうにタバコを吸っていました。(病室でタバコを吸うなんて今では考えられないことですが、当時はのんきな時代でお医者さんも末期の癌患者だということで多めに見ていたのでしょうね)その翌日父は生涯を終えました。最後にご聖体を受けた後父は天国を約束されたのです。何と幸せな人でしょうか。
「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」このときの弟子たちの表情は、もしかしたら私の父が亡くなる前ご聖体を受けたときのような表情だったのかも知れないと想像しています。
(赤波江 豊 神父)