7月19日年間第16主日
赤波江神父の黙想のヒント

マタイ13:24-30

 皆さんの中でガーデニングや野菜作りの好きな人がおられたら、今日の福音のたとえ話は納得がいかないと思います。麦の種を蒔いたら夜の内に敵が来て毒麦を蒔いて行った。やがて良い麦と一緒に毒麦も芽を出した。僕が毒麦を抜きましょうと言っているのに、主人は刈り入れまで待てと言う・・・誰が考えても変ですよね。悪いと分かっているのなら早めに抜けばいいのに。子どもの悪い癖と同じで、悪いと分かれば早めに直さなければならない。これが世の中の常識ですよね。でも主人が僕の言う通り「ああそうか、じゃあ抜いてしまえ」と言ったら、それで話が終わってしまって黙想のヒントにはなりませんね。この話私たちにどんなメッセージを伝えようとしているのか黙想のヒントを探しましょう。

 私たちは何か大きなことを決断して実行しようとする時、やはりある種の毒麦のような「邪魔」が入ってきます。それは決断に伴うある種の不安や懸念で、いざ実行しようとすると、大丈夫だろうか、失敗しやしないだろうか、という不安や懸念によく付きまとわれます。何とかこの不安や懸念を払拭したいのだがなかなか消えてくれない。それでこの不安や懸念と共存しながら行動しなければならないことになります。

 しかし実はこの不安や懸念があるからこそ、私たちは慎重に行動するわけですね。もし何の不安もなく行動すれば調子に乗ってすぐ転んでしまうでしょうね。実は不安や懸念は自分を守る安全弁なのですね。もし不安や懸念を感じたら、そのような気持ちを感じられる自分を信じて、あれこれ考えすぎずに今の自分にできることに集中すればいいのです。

 いまの世の中の毒麦、それは言うまでもなく「コロナ」です。誰もがこのコロナは嫌ですが、しばらくは共存しなければならないでしょう。でも、もしかしたらコロナは人類にもっと慎重に行動せよと言う安全弁の役割を果たしているのかも知れません。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

東京大司教区年間第16主日ミサ配信2020年7月18日18時

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