マタイ14:13-21
「すべての人が食べて満腹した」(マタイ14:20)今日はこの福音の場面を想像してみましょう。どんな光景だったのでしょう。以前聖書を題材にした映画を見たことがありまして、その中でちょうど今日の聖書の場面が出てきました。そこでは弟子たちがバスケットの中からまるで手品のように次から次へとパンを出し、人々は歓声を上げながらそのパンに群がり、魚はバケツの中から怒涛の如く流れだし・・・実はこの映画を見ていてあまりいい気持にはなれませんでした。何か後で人々がパンや魚を奪い合って喧嘩でも起こるような感じを受けました。これはあくまでも映画製作者の想像に過ぎないのですが、皆さんだったらどういう風に想像しますか?
私だったら阪神淡路大震災の情景と合わせて想像したいですね。確かにあの震災は辛くて大変だった。でも懐かしがる人も多いのですね。何が懐かしいのでしょう?それは「あのときは良く助け合ったなあ」「誰もわがままを言わずおにぎりやパンや水を分けあったなあ」と懐かしむ声です。「すべての人が食べて満腹した」と今日の福音は語っていますが、当時の人々の食生活は今の私たちからは想像できないくらい質素で、満腹と言っても私たちがイメージするような満腹、カレーライスや焼き肉を食べて満腹するようなものではなかったと思います。でも満たされた。それは震災のときのように、分け合ったものは少なくても助け合い、思いやりの心があったからそれで満たされたようなものだったと思います。ですから満たされたものは胃袋ではなく心だったのですね。
同じように今日の福音の話も実際人々が食べたパンは決して大量なものではなかった。でもそこにはイエスを中心として分かち合う心、思いやる心があって弟子たちは子供やお年寄りや病人に優先してパンを配り、最後に大人に配り、大人は仮にもらったパンが少なくても誰も不平を言わず感謝していただいた。思いやりと感謝があったからこそ少ないパンでも心が満たされた。満たされたのは「胃袋」ではなく「心」だった。私だったら今日の福音の光景をこのように想像したいですね。
(赤波江 豊 神父)