「私の気前のよさをねたむのか」(マタイ20:15)
今日の福音書の内容は理解できますが、このぶどう園の主人の言葉には納得がいかないという方多いのではないかと思います。確かに全員1デナリオンの約束で雇った。でも朝早くから1日中働いた労働者と、夕方1時間しか働かなかった労働者と同じ賃金とは納得いかない。朝早くから働いてくれた労働者にはこっそり1000円でもプラスしてあげるのが人情というものでしょう。この主人は冷たい…皆さんそう感じておられるかも知れませんね。でもこの話は雇用契約の話ではなく、あくまでも天の国のたとえなのですね。ではこの話のメッセージは何なのでしょうか。
例えば、1日を一生に例えてみれば夜明けは誕生、9時頃は少年期、12時頃は青年期、3時頃は壮年期、5時頃は老年期でしょうか。ところで皆さんはいつ頃洗礼を受けられましたか。ある人は生まれて間もない幼児洗礼、ある人は15歳の頃、ある人は20歳代、50歳代、70歳代と様々でしょう。それではいつイエス様と出会って洗礼を受けるとお恵みが多いのでしょうか。
例えばここに70歳の人が2人いるとします。一人は幼児洗礼、もう一人は今年洗礼を受けたとします。1人が相手に向かってこう言ったとします。「私は幼児洗礼を受けて今まで70年間熱心に信仰を保ってきた。だから私の天国の報いは今年洗礼を受けたばかりのあなたより多いはずだ。そうでなければ私の人生割に合わない。」
さて、皆さんこの人の主張どう思いますか。この人にどうアドバイスしますか。きっと多くの方は「洗礼のお恵みは同じではないですか。それより今年洗礼を受けた方を祝福してあげなさいよ…」と思っておられるのではないでしょうか。まさにそうです。私たちの人生の歩みは様々です。いつどこでイエス様と出会うかは分かりません。でも「出会った時が恵みの時」であり、いつ出会うのがいいとか論じるのは意味がないのです。今日の福音でも労働者たちは主人と出会って雇われた時今日のパンが保証されました。主人はただ皆に今日のパンを保証してあげたいのであって、いつ保証されたのがいいとか論じるのは意味がないということなのですね。
「出あった時が恵みの時」今週も皆さんとイエス様とのいい出会いがありますように。
(赤波江 豊 神父)