「後で考え直して出かけた。」(マタイ21:29)
今日の福音に登場する二人の息子の話、例え話でしょうか、あるいは実話でしょうか。いずれにしてもどこの家庭でもよくあるような話ですね。皆さんも子供の頃よく経験されたのではないでしょうか。親からお使いに行くように言われて、行くと言っては行かなかったり、いやだと言ったけど後で考え直して出かけたりしたものですね。こうやって経験してきたことは人の心は変わるものだということですね。いい意味でも悪い意味でも。
神は人間に最大のお恵みとして自由意思を与えられた。それは人間を愛するからなのですね。愛するからこそ人間に自由を与えられた。愛は自由であることを前提とします。でもこの自由意思は諸刃の剣のお恵みなのですね。人間は私たちを愛と信仰に招く神の呼びかけに従うことができると同時に、それを拒否する自由も持っている。そしてこの神の呼びかけを最後の最後まで拒否し続けたならば、人間はいつか自己矛盾に満ちた重苦しい状態に陥るでしょう。聖書はこの状態を地獄と呼んでいます。従って神が人間を地獄に突き落とすという言い方は間違っています。そうではなく人間が自分自身を地獄にしてしまうのですね。天国も地獄も人間の心の有様を言うのです。
人間が自由だからと言っても、神の前における自由は私たちがイメージしている社会の自由とは少し違うのですね。例えば神は何か冷酷な裁判官のように「お前が天国に行こうが地獄に行こうがそれはお前の自由だ。好きなようにしろ。」というような神ではない。聖書の出発点は神に向かって歩みだす、その第一歩の力を与えてくださるのも神ご自身なのですね。ですから私たちを救いに導く神のイメージは、ちょうど釣り人のように神は私たちの首に見えない糸をつけて静かにご自分の方に引き寄せようとしておられる。心静かにすれば自分が神から引き寄せられていることに気づくでしょう。でもその糸に気づかず無関心やわがままでいつまでも暴れているならば、ちょうど魚が餌に喰いついても暴れたら糸が切れて魚が逃げてしまうように、神の糸も人間自ら断ち切ってしまうことになるでしょう。ですから、そうならないように今週神の呼びかけを拒んだとしても今日の福音のように、
「後で考え直して出かけましょう。」
(赤波江 豊 神父)