10月18日年間第29主日
赤波江神父の黙想のヒント

 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」(テサロニケの教会への手紙1:2)

 皆さん、出会うという言葉をよく使いますよね。例えば、昨日駅で信者さんに出会った、病院の待合室で友人に出会った、大阪で10年ぶりに同級生に出会ったとか。しかし私たちが本当に出会わなければならない場所、それは駅でも病院でもない、「祈り」なのですね。祈りの中で出会うことがその人のために祈ることなのですね。祈りの中でどんな人と出会いますか。遠くにいる家族、親しい友人、亡くなった両親など。でも皆さん、こんな経験ありませんか。それはせっかく気持ちよくお祈りしている最中に、突然嫌いな人の顔が浮かんだことなど。思わず「何で来たの?帰ってくれ!」と心の中で叫ぶのですが、出て行かないどころか自分の方をじっと見ているような気がする…。こういう人って何かメッセージを伝えようとしていると思うのですね。それは何でしょうか。

 だいたい嫌いな人の背後には何か大切なものが隠されていることがあって、後になって、「この人は自分にとってこんなに大切な人だったのか」、と気づかされることがあるのですね。回心のきっかけを与えてくれるのは親しい仲間より敵であったり、恨みをいだいている人の存在がかえって人生の意味を知り人間的に成長したきっかけとなったとか。でもそのことが分かるのは後になってからのことなのですね。

 アフリカのスーダン出身のジュゼッピーナ・バキータという聖人がいます。彼女は幼い頃誘拐されて奴隷となり、何度も売り飛ばされ虐待され、過酷極まりない生活を送っていましたが、イタリアの領事に保護されてイタリアへ渡り、やがて洗礼を受けカノッサ会の修道女となり敬虔な生涯を送りました。そのジュゼッピーナにある人が、「もし今あなたを虐待した奴隷商人たちが現れたらどうしますか。」と尋ねたところ、彼女は「もちろん私はすぐに彼らに駆け寄ってその足に接吻します。なぜなら私は彼らのおかげでキリストと出会い、洗礼を受け、修道女となることができたのですから。」と答えました。彼女はまた「皆私の話を聞くと、かわいそうだと言いますが、私は自分のことを全くかわいそうだとは思っていません。むしろかわいそうなのは神を知らずに生きている人たちです。」とも言いました。

 皆さん祈りの中でいろんな人と出会いましょう。そしてもし嫌いな人が出てきたら、その人の顔をじっと見つめてあげてください。きっと「私にために祈ってください」という声が聞こえてくるでしょう。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

東京大司教区年間第29主日ミサ配信2020年10月17日18時

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