10月25日年間第30主日
赤波江神父の黙想のヒント

 「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:40)

 皆さん、「愛する」という言葉を普段家庭で使いますか。若いカップルならともかく、普段あまり使わないのではないでしょうか。非常に大切な言葉であるにもかかわらず普段あまり使うことがない、そういう意味で非日常的な言葉なのですね。そしてたまに使ったら恋愛的な意味でとらわれることが多い。だから愛したいとか、愛されたいとか口に出して言えば何か軽く聞こえる。でも本当は皆心のどこかでこの言葉に憧れを感じている。それが愛という言葉の意味ではないでしょうか。

 今日の福音で律法学者はイエスに最も大切な律法の掟は何かと尋ねました。それに対してイエスは神と隣人への愛を説きました。普通私たち「掟」という言葉にマイナスなイメージを持っています。それでもし愛することが掟なら、無理してでも愛さなければならないのでしょうか。そうしないと罰せられるのでしょうか。しかし愛は権利義務の対象ではないのです。権利として愛を要求できないし、義務として愛することもできないのです。なぜなら愛はあふれ出るものだからです。そのためには自分が神と出会って、聖書と出会って、人と出会って満たされることが大事なのですね。そうすれば今まで好きになれなかった人に対する関わり方が少しずつ変えられていくでしょう。

 だから今もし愛することができない人、好きになれない、赦すことができない人がいるならば、心のどこかに何か満たされない思いがあるのかも知れませんね。もしかしたら相手に何か完璧さを求めていませんか。「妻である、あるいは夫であるあなたはこうあるべきだ」「あなたは私の子どもなのだから私の要求通りに行動しなければならない」「私は友人のあなたに期待しているのだから、私の期待に応えなければならない」などと。でも人に要求する前に自分を変えましょう。自分を変えるというのは、今までの自分の見方を変えるということです。それは、人は悪いのではなく弱いのだ。自分が欠点だらけであるのと同じように、人も欠点だらけなのだ。自分が欠点に苦しんでいるのと同じように、人も自分の欠点に苦しんでいるのだ。そうすれば愛することができなくても、赦すことができなくても、少しずつ相手を受け入れることができるのではないでしょうか。

 これからはあえて「愛する」とか「赦す」とかという非日常的な言葉は使わなくても、「受け入れる」という言葉でイエスの生き方を十分実践できますよ。

 皆さん、少し気が楽になってくださいましたか。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

東京大司教区年間第30主日ミサ配信2020年10月24日18時

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