「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)
心の清さとは、例えばきれいな池や川が底の小石や魚をきれいに映し出すような状態、ちょうど裏表のない状態を言います。即ち、良心の声に従って生きることを言います。良心の声とは「善を行え、悪を避けよ」という内心の声で、これは人間が作った掟や法律ではなく、人間が生まれながらに持っている絶対的な命令です。この良心の声に従って生きることが人間の尊厳であり、この良心の声の中に神の導きがあるのです。ちょうど世界中どこのカトリック教会でも赤いランプがありますが、それはご聖体が安置されているしるしで、まさにここにキリストがおられることを意味するのと同じように、良心の声は神が現存するしるし、まさに「心の聖体ランプ」であるわけです。
しかし「心の清い人々は幸いである」という言葉は非常に分かりやすい言葉であると同時に、一番自分には縁がないと思う言葉ではないでしょうか。もし皆さんの中で「私は心が清いです」という人がいたらどう思いますか。きっと「この人変…」と思うでしょうね。というのは、心の清さは自分が決めるのではなく、周りが決めるのですね。心が清い人だと思われる人は、実は自分のことを非常に罪深いと自覚している人なのです。だからもっと清くあらねばならないと、清さにあこがれるわけですね。即ち心の中に神が生きておられるから、それに矛盾する罪と悪を意識するわけです。ですから今日の福音をこう読み替えましょう。
「心の清さを願い続ける人々は幸いである、その人たちは神を見る」
(赤波江 豊 神父)