12月27日聖家族の祝日
赤波江神父の黙想のヒント

 「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」(ルカ2:39)

 今日は聖家族の祝日ですが、皆さんは聖家族と聞くとどんな家庭をイメージされますか。きっとイエスを中心としたマリアとヨセフの清らかな罪の汚れのない家庭をイメージされる方が多いと思います。もちろんそのイメージは間違ったものではありません。でもそうだったら聖家族は私たちの現実の家庭とは遠くかけ離れたものになってしまうのではないでしょうか。

 家庭とは愛情が育つべき場であると同時に、痛みや傷なしに愛は育たないということを学ぶ場でもあるのですね。家庭は社会の縮図と言われるように、多くの困難がうごめく場でもあるのです。アルコールや薬物の依存症、離婚、暴力、不登校と引きこもり、病気と介護など。私たちは教会で社会問題など様々な問題を分かち合いますが、家庭問題の中にはその特殊性の故に分かち合うのが困難なケースも多くあります。即ち自分たちの家庭のつらい面を人に見られたくないという思いです。真に苦しむ人は語らないのが事実です。そのような人たちの中には、自分たちのような者は恥ずかしくて教会に行けないと思い込み、あるいは教会の敷居が高く感じられて教会から離れて行くケースが後を絶ちません。でも多くの人は内心では毎週教会に行きたい、教会でみんなと同じ活動がしたいと願っているのですね。時々平日の人気のない聖堂で祈っている人の後姿を見ることがあります。この人何を祈っているのかなと思いながらも、その後姿の背中の曲がり具合によってその人の苦悩が漂っているのを感じます。

 現実の様々な家庭問題から教会に行くことができなくても、自分なりの仕方で信仰のあり方を模索している人たちが多くいます。このような現実の闇の中で信仰と光を模索しながら生きる家庭をこそ聖家族と呼んでいいのではないでしょうか。

 福音書がナザレの聖家族については述べていることはほんの僅かで、実は神秘のベールに包まれているのです。もし聖家族がナザレで際立った素晴らしい家庭だったらそれを耳にした弟子たちがそのことを福音書に記したことでしょう。それが書かれていないということは、ナザレの聖家族も実は私たちの家庭とあまり変わらない平凡な、そしてもしかしたら何か困難を抱えた家庭だったのかも知れません。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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