1月3日主の公現
赤波江神父の黙想のヒント

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:10)

 学者たちというのは占星術の学者で、今でいう天文学でした。彼らは来る日も来る日も星の観察を続けていましたが、ある日特別な輝きを放つ星を見つけました。いったいこの星は何だろうということで、ユダヤに伝わる古い文献を調べてみたところ、どうやら救い主が生まれたしるしであることが分かりました。そこで彼らは救い主に会うために旅に出たわけです。しかし当時の旅は現在の私たちがイメージするような快適なものではなく、非常に危険なものだったのですね。砂漠を旅しますから水と食料が尽きるかも知れない、猛獣や盗賊もいたことでしょう。その様々な危険の中を星の導きだけを頼りに旅を続け、ついに幼子の上にその星が止まり「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。

 さあ2021年の旅が始まりました。私たちも今年の旅を導いてくれる星を探しましょう。でも星というものは夜の暗闇の中でこそはっきり見えます。同じように私たちを導く星も人生の闇、即ち様々な困難、犠牲、人間関係上の誤解、人知れず流した一滴の涙の中でこそ気づくものなのですね。

 ところで私は山が好きで時々登ります。特に新緑や紅葉の頃が最高ですね。でも一見快適な登山も実は危険と隣り合わせなのですね。遭難や滑落、野生動物の害など。特に私は蛇が苦手で、どういうわけか山を登ると必ず何度も蛇と出会ってしまう。ある信者さんから「神父さん、それは自分で蛇を探しながら歩いているからですよ」と言われました。確かに蛇がいやだ、いやだと思いながら、結局自分でわざわざ探しているわけで、蛇がいるのではないかと思ったらやっぱり草むらや岩陰にいるのですね。人生も同じで、悪いことが起こるのではないかと思いながら生きていたら自分で悪いことを呼び込んでしまう。いいことが起こると信じて生きていたら必ずいいことが訪れてくれるものなのですね。ところで山の話に戻りますが、危険な山登りを導いてくれるものは道標(みちしるべ)です。山道が分かれていると、矢印があって「頂上まであと2キロ」とか書いてあり、またしばらく歩くと道が分かれていて、同じように矢印と「頂上まであと1キロ」、このように分かれ道には必ず道標がありそれを頼りに頂上にたどり着くわけですね。ですから今日のテーマ、占星術の学者たちが星を頼りに救い主に出会ったように、登山者にとってこの道標は命であり、これがなければ必ず事故につながるものですね。同じように私たちを神へと導く道標、それはお互いの顔です。

 2021年の旅が始まりました。心に「お互いの顔が神への道標」というステッカーを貼っておきましょう。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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