「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(マルコ1:11)
イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊が鳩のようにご自分に降り、やがて「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえました。即ちイエスはその時、自分は天の御父から愛され、守られ、導かれているということを全身で感じ取ったのですね。今日はこの「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という言葉をもはや単に天の御父がイエスに与えた言葉としてではなく、イエスが私たち一人一人に与えた言葉として受け止めましょう。
ある毎日酒浸りの父親がいて、その娘さんは困って父親が酒を断つようにいつも祈っていました。また友人たちと祈りのグループもつくって父親が酒を断つよう祈っていたのですが、父親は酒を断つことはありませんでした。ある日彼女はふと思って祈りを変えてみました。それは「父親が酒を断つ祈り」ではなく、「父親に対する感謝の祈り」でした。やがて間もなく父親は酒を飲まなくなったそうです。
私はこの話を聞いたことがあるだけで本人たちと話したこともありませんが、事情が分かるような気がします。私の想像ですが、彼女は家では迷惑そうな顔をしながら酒をやめるように言い、周囲には愚痴をこぼし、他の幸せそうな家庭を見ては父親に無言のうちに「あなたは私にとって恥ずかしい人だ、あなたがいなければ私たちはどれだけ幸せなことだろう」という視線を毎日投げかけていたのでしょう。父親もそのような雰囲気と視線を毎日感じ取り、それがますますストレスとなって酒をやめようとはしなかったのでしょう。でも娘さんはある日、毎日酒ばかり飲む父親だが自分が小さい時可愛がってくれ、しっかり育ててくれた、この親があって今の自分があることを思った時、これからは父親が健康であることを祈ろうと思って、「父親に対する感謝の祈り」を自分も祈りのグループの友人たちと始めたところ、彼女自身も家庭で父親に愚痴ではなく感謝といたわりの言葉で接し、彼女の表情も優しくなったのでしょう。父親もやがて自分が家族から愛され受け入れられていることを感じたとき、ストレスもなくなってやがて酒も必要としなくなったのでしょう。ですから彼は酒を断ったのではなく、もはや酒を必要とはしなくなったのですね。それは今日の福音の言葉を、娘さんを通してこう感じ取ったからでした。
「あなたは私の愛する父、私の心に適う父」
(赤波江 豊 神父)