「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしにきたのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコ1:24)
汚れた霊がイエスに対して叫んだ言葉です。何だか、あの人気アニメ「鬼滅の刃」のセリフのようですね!皆さんご覧になりましたか?ところで、どうして汚れた霊にはイエスのことが神の聖者だと分かったのでしょうか。善人にもイエスが神の聖者であると分かるはずです。どうしてマルコ福音書は汚れた霊にイエスのことを神の聖者であると言わせたのでしょう。
これは私たちに対するメッセージでもあります。私たちも罪体験によって自分の心の中に悪の存在を感じることがあります。それは心の中に神がいるからこそ、愛が絶対者として存在しているからこそ、その矛盾に気付くわけですね。もし神が私たちの心を支配していなければ悪に気付くこともないでしょう。そうなると明らかに客観的に間違ったことをしているにもかかわらず、普通のこと、場合によったら正しいことと感じとってしまうことがあるわけですね。ですから間違ったことをして落ち込んで自己矛盾や自己嫌悪に陥ることは正常な人間であることの証拠なのです。それは神がともにいてくださることの証拠ですから。
人間の体も同じで、人間が健康を保つためにも多少の大腸菌も必要なのですね。きれいな水だけを飲もうとして蒸留水ばかり飲んでいたら体を壊してしまったという例があります。人間の体は善玉菌と悪玉菌を戦わせることによって健康を保っているのです。人間が心の健康を保つのも同じで、いつも悪と戦い続けていなければならない。一番危険なのは自分の心にもはや悪は存在しないと思った時で、実はその時人間は完全に悪に支配されているのですね。ですから明らかに客観的に悪いことをしても悪いとは思わないことがあるのです。それが悪魔の策略です。
皆さん、間違ったことをして落ち込み、自己矛盾や自己嫌悪に陥っても、それは神がともにいてくださることの証拠ですから、神がまた立ち上がらせてくださいますし、そこからまた人生の新しいことを学びますよ。
最後に、「ストレスは人生のスパイスである。」(ハンス・セリエ)という言葉を添えておきます。
(赤波江 豊 神父)