2月7日年間第5主日
赤波江神父の黙想のヒント

 「近くの他の町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。そのために私は出てきたのである。」(マルコ1:38)

 これほどはっきりとイエスがご自分の宣教の目的について述べられたことはありませんでした。「そのためにわたしは出てきたのである」と。人生全て意味と目的があります。今自分がしていることは何のためかと自問する必要があります。雑用という仕事はないとシスター渡辺和子は言いました。どんな小さな仕事でも意味と目的があります。ただそれを面倒な気持ちでやろうとするとき雑用に変わるわけですね。ですから雑用が増えれば増えるほど、私たちの人生もまた雑な人生になるのではないでしょうか。そういう意味で決して日頃使ってはいけない言葉は「面倒くさい」です。この言葉ほど私たちの生活を腐らせてしまうものはありません。実は、そういう私も思わず「面倒くさい」と言いたくなる時がありますが、そう言いたくなる仕事、出来事の中に大切なメッセージを発見することがよくあります。それで時々「面倒くさい」と言いたくなる時は、ちょっと舌打ちしながら「ああ、また神の使いが来た!」と言ったりもします。 

 皆さん、今までの人生を振り返って自分に問いかけてみましょう。自分は今まで何のために生きてきたのだろうかと。それは今日という一日を生きるために準備してきたからです。今日のこの1日は人によって40年、50年、60年かけて準備してきた1日なのです。ですから今日のこの1日は決して平凡な日ではなく、何十年もかけて準備してきた貴重な1日なのですね。ですから一日一日を自分の一生の全てと思って、いとおしむように過ごし続けましょう。そうすればいつか訪れる人生の千秋楽も感謝の内に迎えることができるでしょう。

 皆さん、「面倒くさい」と言ったらいけませんよ。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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