「御心ならば、私を清くすることがおできになります。」(マルコ1:40)
イエスの時代、律法によれば思い皮膚病の人は一般の人に近づいてはいけないし、一般の人もそのような人に触れてはいけませんでした。しかし今日の福音書に登場する思い皮膚病の人はあえてイエスに近づきましたし、イエスも律法の掟を破って彼に触れて癒しました。
イエスの時代から今日に至るまで私たちを支配している間違った宗教観があります。それは「清くなければ神の前に立つことができない」という考えです。そのため当時の人々は律法の細かい掟を遵守して身を清めることが要求されました。例えば、口にしてはいけない食物、触れてはいけない人、安息日に仕事をしてはいけないことなど数多くの掟、それを実行して初めて神の前に立つことができると考えていました。従って律法の掟を守らない人は罪人であって汚れており、彼らは神の前に立つことはできないと考えていたのです。
しかしこの考えはイエスの時代のみならずいつの時代でも、いまでも教会の中で私たちを支配しています。例えば、家庭は社会の縮図であって、そこには多くの難しい問題がうごめいています。暴力、アルコール、薬物、犯罪、離婚の問題など。そのため教会の敷居が高く見え、場合によったら「自分のような汚れたもの者は教会に行くことはできない」と思って自分で自分を裁き、教会から遠のくケースが後を絶ちません。
しかし、そうではなく私たちは皆罪人であり汚れている。だからこそ神によって清めてもらわなければならない。自分で自分を清めることなどできません。自分で自分を清めなければならないと考えたらそれこそファリサイ派的になります。
しかし今述べたように、教会には様々な困難な問題のため自らを裁いて教会から遠のくケースが後を絶ちません。そのような人達が勇気をもって教会とイエスに近づき困難な問題があっても安心して生きていくことができるよう祈らなければなりませんが、今日の福音書でイエスが律法の掟を破って触れてはいけない人に触れて癒したように、私たちの方こそ問題を抱えた人に近づいて彼らを支えていくことができるよう、私たちの方こそその勇気を願いましょう。
(赤波江 豊 神父)