その悲しみが喜びになります

ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか。今年の聖霊降臨のお祝いを一緒にできなくて残念でした。その日、わたしは皆さんのために祈りました。 わたしたちはイエスの愛のうちにいつもつながっています。緊急事態宣言が延長された今、あなたに励ましの言葉を送りたいと思ってこれを書いています。

復活節第6木曜日の福音書にこう書いてありました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。

ヨハネによる福音書 16:16-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

イエスが弟子たちから離れて天にあげられ、もう会わなくなると言った時、弟子たちは悲しくなりました。それは自然な感情でした。その暗い感情にとらわれた弟子たちは、「悲しみが喜びに変わる」というイエスの約束の言葉を、あやうく聞きそこなってしまうところでした。

誰かが不安と悲しみに襲われた時、「明日は晴れる」という励ましの言葉がよく使われます。それぞれの性格によって、その言葉に支えられて元気を出す人もいれば、不安のためにそれを受け入れられない人もいます。弟子たちの場合も、イエスの言葉によって力づけられた弟子もいれば、そうでない弟子もいました。 緊急事態宣言が続き、教会に行かない日々、教会の仲間に会えない日々が続くと、信仰生活を続けるのが面倒だなと感じることはありませんか? 今のように、一人だけでいる時には、私たちはどのように信仰生活を守り育てていけばいいのか迷うものです。聖書の言葉を読んでも分からない、難しくて諦めたくなる、そんな時、私たちはどのようにすればいいのでしょうか?

教会は信仰を支える場所なので、その場所に行けなくなったら信仰はなくなるのでしょうか。上の福音書の箇所をもう一度読んだ時、「わたしを見るようになる」という言葉が目にとまりました。弟子たちはイエスを見ることによって喜びを受けます。彼らとイエスとの間に絆が結ばれていることがわかります。それが信仰だと感じます。一人ひとりがイエスにつながっています。だから一人でも信じることはできます。イエスを信じることはすべてです。つまり、今は教会に行けなくても、信仰をもって自分をイエスに結べば、いつもイエスに結ばれることになります。そしてイエスが約束してくださった喜びに少しずつ入ることができます。

最近のわたしの祈りは「イエスとともにいる喜びを望むこと、味わうこと」です。教会に行くこと、ミサをささげることは喜ばしい恵みです。イエスとの絆のうちに生きることを強めてくれます。またその喜びを表現してくれます。しかし、「イエスとともにいる喜び」をわかるためには、日常生活の中でイエスに従っていかないと、それはどうしてもつかめないのです。

しばらくお会いしていませんが、あなたのイエスとの絆は今どうなっていますか? イエスが約束してくださった喜びを信じていますか? お互いに愛しあいなさいという言葉を守っていますか。むずかしいですね。でも、むずかしくても、イエスがともにいてくださることを信じてください。今日、イエスを信じる喜び、イエスとともにいる喜びがわたしたちに与えられるように祈ります。

時がきたらまた教会に集まって、ともに感謝しながらお祝いしましょう。

     エマニュエル ポポン

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