「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)
イエスと弟子たちとの別れです。イエスは弟子たちを愛していました。だからと言っていつまでも弟子たちと一緒にいることは望みませんでした。そうではなく愛するからこそ別れることを望んだのです。弟子たちはイエスの姿が見えなくなって初めてイエスの言葉と行いの意味が理解できました。そしてイエスが永遠に生きておられることを学びました。
「弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)
確かに別れって寂しいですね。でも別れるとき寂しいと思うからこそ再会するとき嬉しいのですね。別れが寂しくなかったら再会しても嬉しくないと思います。また誰かと別れるとき、同時にその人を待ち続けている人がいることも忘れないようにしましょう。飛行機が空港を離陸して次第に見えなくなるとき、また船が港を出港して段々小さくなり、そして水平線の彼方に消えていくとき、到着予定地の空港や港ではそれを心待ちにしている人がおり、自分の方に向かってやってくる飛行機や船に向かって大きく手を振り、ついに空港や港で歓喜の握手や抱擁が交わされるのですね。
また親密さには適度な距離が必要なのですね。いつもべったりは誤解や争いを招くことがあります。親しいからと言って相手の心に中にズケズケと入り込むのはやめましょう。また親しいからと言って、必ずしも何もかも話す必要はない。石川啄木にはそのことで苦い思い出がありました。
「打ち明けて 語りて何か損をせし ごとく思ひて友と別れぬ」(一握の砂)
ある種のことは神と自分だけの場として一生心の中に納めておくのもいいかと思います。
(赤波江 豊 神父)