「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4:38)
弟子たちは嵐にもまれる船の中でイエスに必死に叫びました。でもイエスは船の中で眠っておられました。皆さんも今まで同じような叫びを神に投げかけたことがあるのではないでしょうか。「神よ、わたしが死んでもかまわないのですか」「神よ、わたしがどうなってもかまわないのですか」でも神は何も答えてくれなかった…など。
ところで病気や事故で意識不明の人と対面することがあります。でもこのような時どう対処したらいいかわからない…。話しかけても反応がないから…。皆さんもこのようなことを経験されたのではないでしょうか。でもわたしはこのような意識不明の人に対する語りかけは神への祈りに通じると思うのですね。医師や看護師が共通して言います。「耳は最後まで残る」と。意識不明に見えても実は聞こえているのですね。ある司祭は病気で倒れ病院に運ばれました。その後意識を回復した後に語りました。「病室で皆さんが話したことは全て聞こえていました」と。神への祈りも同じです。神は語りかけても祈っても何も答えてくれない、でも全て聞いている。そして後に何かが示される。
ミサで一番大切な時、それは聖変化です。普通のパンがキリストになる時。同じようにわたしたちにとっても『人生の聖変化』の時があります。それは人生で一番苦しかった時、「神よ、わたしが死んでもかまわないのですか」「神よ、わたしがどうなってもかまわないのですか」と叫んだ時。即ち、一番神を必要とした時。その時わたしたちはキリスト化された。でもそれが分かったのは後になってから。後になって「神は全てを聞いていた」ということが分かった。人生で一番苦しかった時、それが『人生の聖変化』の時。
(赤波江 豊 神父)