7月11日年間第15主日
赤波江神父の黙想のヒント

 「何も持たず」(マルコ6:8)

 イエスは弟子たちを宣教に遣わすに際して「何も持たず」に行くように命じられました。でも現実的に無理な話ですよね。普通、旅に出かけるには最小限の金銭、食料、衣類が必要だと考えます。でも今日のメッセージは別のところにあるようです。イエスに従って行くために持って行ってはいけないもの、それは自分への執着です。自分には経験能力があると思っても人から見れば取るに足りないものであったり、経験能力があるとの思い込みから人を軽蔑したり、結局そのような思い込みが成長の妨げになることがよくあります。むしろ自分は何も知らないからもっと学ばなければならないという謙虚な姿勢、ギリシャの哲学者ソクラテスも言った「無知の知」が信仰的にも人間的にも成長の秘訣であって、罪深いのは自分が無知であることを知らないことなのですね。

 また、わたしたちがイエスに従って行く際の重荷が二つあります。それは「過去の後悔」と「未来への不安」です。これさえなければと思うのですが、どうしてもついて来る。しかし過去の後悔があるから慎重に行動するし、また同じ失敗をした人への思いやりも生まれてくる。そして未来への不安があるから努力するわけですね。はっきり言って未来への不安が全くなかったら、人間は努力しなくなります。信仰的にも人間的にも「過去の後悔」と「未来への不安」、これを上手に使いこなしましょう。

 ところでイエスは弟子たちが迎え入れられず、耳をかたむけてもらえなかったら、彼らへの証しとして「足の裏の埃を払い落としなさい」(6:11)と命じました。しかし、実際わたしたちが払い落とさなければならない埃、それは、怒り、恨み、妬み、悲観主義などのマイナス思考です。さあ、今日もこのようなマイナス思考という埃を払い落としてイエスについて行きましょう。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

東京大司教区年間第15主日ミサ配信2021年7月11日10時

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