「ここに大麦のパン五つと二匹の魚とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6:9)
「何の役にもたたないでしょう」これは時々私たちの頭をよぎる言葉で、また教会の試練でもあります。私たちは効率性、合理性を重んじる社会の中で生きていますから、少ない材料でより良い製品を、少ない努力でより良い成果を上げることが求められています。でも教会の生命力は、一見して無駄と思えるところにどれだけ大きな力を注ぐことができるかにかかっています。テレワーク、リモート会議も増えて便利になりましたが、99匹の羊を野原に残してでも失われた1匹の羊を探し求めて(ルカ15:1~7参照)、一人一人と出会うためには効率の悪い地道な努力が必要です。悩み苦しむ人の思いはリモートではなかなか分かりません。直接相手の表情を見ながら、目と目を合わせながら語り合いましょう。
「何の役にも立たないでしょう」これはまた、特に祈りの中で受ける試練です。「祈って何の意味があるのだろうか」「祈りって本当に届いているのだろうか」私たちはこのような疑問や空虚感によく襲われます。しかし教会の生命力は、一見して無駄と思えるところにどれだけ大きな力を注ぐことができるかにかかっています。それは日々の祈りにこそ当てはまることです。
「地球上において全ての物体は地球に引き寄せられているだけではなく、この宇宙においてはどこでも全ての物体は互いに引き寄せ合っている」というニュートンの万有引力の法則があります。この法則を認めるのなら「全ての人は神に引き寄せられているだけではなく、全ての人は互いに引き寄せ合っている」という祈りの法則も認めないわけにはいきません。「祈りは人が生み出しうる最も強力なエネルギーである。それは地球の引力と同じ現実的な力である。私は医師として多くの人があらゆる治療で失敗した後、祈りという厳粛な力によって病気から救われた例を目にしてきた」(アレクシス・カレル1912年ノーベル生理学医学賞受賞者)これが祈りの科学的根拠です。
「何の役にも立たないでしょう」祈りながらこのような試練に襲われても、諦めず祈りに没頭しましょう。
(赤波江 豊 神父)