「お前がユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)
今日は王であるキリストの祝日ですが、普通私たちは王というと黄金の冠をつけて玉座から国民を支配している姿をイメージします。しかしキリストの王としての姿は黄金の冠ではなく、いばらの冠であり、玉座から人々を支配するのではなく、人々から踏みつけられ弟子たちからも裏切られた姿です。でもキリストはそこからこそ愛を芽生えさせ、力による支配ではなく、愛となって人の心を支配する王であるのです。イエスは人々から虐げられ、弟子たちからも裏切られたにも関わらず、今なお王として私たちを支配している状態は、言わば歴史の非常識です。
例えば、モンゴル帝国のチンギス・ハーンは少年時代に家族親戚から見捨てられ、モンゴルの荒野で一人暮らさなければなりませんでした。そのとき彼はモンゴル人が決して口にしない魚を食べながら命をつないでいました。やがて彼が皇帝の位に就いたとき、かつて自分を裏切った家族親戚を呼び集め、何と全員自分の前で処刑したのでした。裏切者は殺される、これが歴史の常識です。しかしこのようにして築かれた国はやがて滅んで行ったのでした。
しかしイエスは虐げられても復讐せず、弟子たちから裏切られても愛し続ける。事実、復活したイエスが弟子たちに現れた時の第一声は「あなたがたに平和があるように」でした。イエスは、人は悪いのではなく弱いのであり、弱さのゆえに罪に陥ることをよく知っており、同時にその弱い人間はいつも愛に飢えていることもよく知っていたのでした。その愛の勝利を信じて宣言したのが神の国であり、その神の国は今なお存続し、これからも永遠に存続し続けます。もしイエスが自分を虐げた者たちに復讐し、自分を裏切った弟子たちを厳しく処罰したならば、神の国も教会も生まれなかったでしょう。
ところでイエスの受難のシンボルであるいばらの冠、あのいばらには花が咲くことをご存じですか。派手さはありませんが、春先には白い可憐な花を咲かせます。いばらは、いばらで終わらない。必ず花を咲かせます。十字架は十字架で終わらない。必ず復活します。私は、あるイエスを題材にした漫画で、イエスの頭にあるいばらの冠に花が咲いている絵を見て感動したことがあります。これはあくまでも漫画の絵ですが、いばらの冠の意味をよく示しています。今まで絵画の歴史の中で無数の画家たちがイエスの受難を描いてきましたが、いばらの冠に花が咲いている絵は一度も見たことがありません。一人の日本人の漫画家によって私はいばらの冠の新しい意味を発見することができたのでした。
私たちが歩んできた、そして今なお歩み、またこれから歩まなければならないかも知れないいばらの道、でもよく目を凝らして見てください。きっと足元には白い可憐な花が咲いていて、その花がいばらの道の人生に大きな意味を与えていることでしょう。
(赤波江 豊 神父)