「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)
今日は主の洗礼の主日ですが、どうしてキリスト教の創始者であるイエスが洗礼を受ける必要があったのかという疑問をお持ちの方も多いと思います。イエスご自身ユダヤ教徒として生まれて、ユダヤ教徒として生活され、その習慣に従って洗礼をお受けになりました。従って洗礼はキリスト教が発明したものではなく、ユダヤ教の時代からありましたが、キリスト教はそれに新しい意味を加えました。それは聖霊が注がれるということで、その結果イエスの洗礼の時と同じように、わたしたちも洗礼によって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を心で聞くのです。それでは洗礼前は愛されていなかったのかというと、そうではなく愛されていることに気づいていなかったということなのですね。
洗礼を受けたある女性の信者さんに、「洗礼を受けて何か変わりましたか」と尋ねたことがあります。彼女は「洗礼を受けても別に生活は変わりませんでした。でも、転んだり倒れたりしてもすぐ立ち上がれるようになりました」と嬉しそうに答えてくれました。転んだり、倒れたりすることは弱い人間性につきものです。でもすぐ立ち上がることができる、これが聖霊の働きで、今日の第二朗読でパウロが言う「祝福に満ちた希望」(テトスへの手紙2:13)なのですね。
今日は成人式のお祝いが行われます。今日新たな人生の岐路に立つ青年たちの上に「祝福に満ちた希望」が注がれますように。彼らはこれからの人生、楽しいこと、嬉しいことだけではなく、挫折や失敗も経験しなければならないでしょう。かつて野球でヤクルトや阪神で監督を務めた故野村克也氏は、「失敗と書いて成長と読む」と言いました。何か失敗したとしても、そこから新しいことを学んだら、それはもはや失敗ではなく、大切な貴重な経験となります。だいたい人は成功からではなく、失敗から多くのことを見出し学んで成長するのですね。青年たちがこれから失敗しても挫折しても、そのたびに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスの声を心に感じ取り、すぐに立ち上がって「祝福に満ちた希望」の中を再び歩むことができますように。
(赤波江 豊 神父)