2月6日 年間第5主日
赤波江神父の黙想のヒント

「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(ルカ5:5)

 ペトロにとって昨晩の漁は失敗で、何の収穫もありませんでした。しかしイエスが「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言ったとき、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、おことばですから、網を下ろしてみましょう」とペトロは答えましたが、内心は「漁は夜中に行うものだよ。だいたい漁師でもないあんたなんかに言われたくないね」と反発していたかもしれません。ところが、決してありえないはずの大漁にペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスの前にひれ伏し、イエスを疑っていた自分に恥じ入ります。

 そのペトロの思いはわたしたちの、そして教会の試練です。「今まで努力したけど何の成果もなかった」今までの努力は何だったのか。失敗だった、などと落ち込むこと限りなしです。しかし失敗というものは、実は形を変えた恩恵であることが多いのです。失敗によって新しい可能性とチャンスへの道が開かれ、試行錯誤を繰り返しながら人生の深みに触れるのです。失敗は生き物です。失敗の中には予期せぬチャンスの種子が宿されているのですね。それを見出して芽を出させ、実を結ばせるにはいつも自分の目的をしっかりと意識していることが必要なのです。チャンスは姿を隠してやってきます。これを教会用語で「救いの秘儀」と言ったりもします。夢や希望というものは、当初の考えていた仕方とは別の方法で実現することがよくありますが、これこそがチャンスのトリックなのですね。チャンスはいつも意外なところからやってくるという皮肉な習性があります。それは場合によったら、不運とか一時的な敗北の影に隠れてやってくるのです。だからこのチャンスに気が付かず見逃してしまう人が多いのです。

 あの発明王トーマス・エジソンの人生の最初のつまずきは、子どもの頃学校の先生から両親宛に手紙を持たされ家に帰されたことに始まりました。その手紙には「この子は教育するに値しない子です」と書かれてあったのでした。従ってエジソンは3か月しか学校に行っていないのです。子どもだったエジソンにはショックでしたが、そのことで彼は努力して独学で勉強する習慣を身につけ偉大な発明家になりました。その彼は「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」という名言を残しています。また彼は子どもの頃、列車の中で飴を売って働いていましたが、乱暴な客に飴ごとけ飛ばされ、おまけに耳をひどく引っ張られたのが原因で片方の耳が難聴になりました。後に人から片方の耳が難聴であることは大きなハンディじゃないですかと聞かれたところ、「いいえ、わたしは耳が聞こえないことで大助かりしていますよ。くだらないおしゃべりを聞かなくてもすみますからね。それで内なる声を聴くことができるようになりましたから」と答えました。彼は体の不自由さの中に自分だけの特権を見出して心の中に潜む神秘的な力に波長を合わせ、それを聴きとることができるようになり、自分の心の中に無限の英知を発見したのでした。

 逆境の中にはすべて、それと同等かそれ以上の恩恵の種子が宿っています。
「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」
わたしたちもペトロのようにこう言いたくなった時にこそ、心の中に成長の種子が発芽しかかっていることに気づきましょう。そのわたしたちに今日も「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」とチャレンジを求め続けるイエスの声が静かに響いてきます。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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