「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は … 祝福されよ、主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」(エレミヤ17:5, 7)
今日の第一朗読エレミヤの預言は呪いと祝福について述べ、ルカ福音も幸いと不幸について述べています。心が神から離れ人間的な思いで生きる人には呪いと不幸、神に信頼する人には祝福と幸い、このように端的に解釈するのもいいでしょう。でも今日は別の観点から黙想してみましょう。
私たちの人生という旅の途上には大きな暗黒の森、「祝福と呪い」、「幸いと不幸」が織り合わされた見通しのきかない森が立ちはだかっています。私たちはその森の中を歩まなければならないのですが、大事なことは、自分は今どこを目指して歩んでいるのかです。自分の行き先を知っている人には世界は道を開けてくれます。即ち、人生の目的や希望が確固としていれば必ず目的地にたどり着くことができます。反対に、行き先を知らずにただ歩いているだけなら、即ち、人生に目的や希望がなければ、いつの間にか不安、不満、怒りという道に迷い込んでしまい、ついには自分が道に迷っていることすら気づかず、同じ道をぐるぐると歩き続けているのです。
自分の行き先を知っていれば、即ち人生の目的と希望が確固としていれば、迷うことがないように必ず道標(みちしるべ)を探します。またすれ違う多くの人からどの道が正しいかとアドバイスを受けます。もし間違った道に入り込んだと気づいたら、必ず元来た道に引き返し、そこからどの道が正しいか考え直します。
私たちはこのように人生の「祝福と呪い」、「幸いと不幸」の森の中で試行錯誤と葛藤を繰り返しながら、自らの魂に磨きをかけるのです。そして山の中を歩くときよく経験するように、歩き疲れてふとしゃがんだ森の中に小さな川のせせらぎを見つけ、その水を飲んで再び元気を取り戻しながら、大きな川の水源も、実はこんなに小さなせせらぎなのだということを改めて知るのです。そして同時に自分の魂の中にも偉大なる水源があることに気づき、自分の使命はこの魂を生み育んでくれた偉大なる永遠の水源へと戻っていくのだということに気づきたいものです。それこそが、私たちが最終的に願う人生の祝福だからです。
かつてニューヨークのある病院の壁に書かれた無名の患者の祈りが、世界に大きな反響をもたらしました。
「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深くあるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた
幸せになろうとして、富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった
求めたものは、一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた
私は、あらゆる人生の中で、もっとも祝福されたのだ」
(赤波江 豊 神父)