3月13日 四旬節第2主日
赤波江神父の黙想のヒント

「これはわたしの子、選ばれた者」(ルカ9:35)

 今日はこの福音の言葉を、天の御父がイエスに与えた言葉としてだけではなく、イエスご自身が、またわたしたち一人一人にも語りかけてくださる言葉として受け取りましょう。ところで一般社会では「選ばれた者」の背後には、「選ばれなかった者」がいることを意味します。例えば、誰かが社長か市長に選ばれたとします。このことは、他の人は選ばれなかったことを意味します。その理由は、選ばれた人は能力や実績があり、選ばれなかった人はそれが足りなかったからです。このように一般社会では、選ばれた人は、選ばれなかった人より実績、能力、人気があることを意味します。

 しかし神の前における「選ばれた者」は、このような優劣を意味するものではありません。誰かが神から選ばれたことは、同時に自分も、そしてあなたも選ばれたことを意味します。神からの選びは他者を排除するものではなく、他者を受け入れ、他者とともに歩むことを意味するのです。例えば、マリアは救い主の母として特別に神から選ばれました。その選び方は皆さんが誰かの母に、また父になるように神から選ばれたのと全く同じなのです。というのは、わたしたちの人生は決して誰も取って代わることのできない、人間の歴史上、唯一無二の人生であり、そのことは神から「あなたはこの人生を歩みなさい」と委ねられた特別な選びなのです。わたしたちはマリアの人生を歩むことはできません。同時にマリアもわたしたちの人生を歩むことはできないのです。わたしたち一人一人は神から特別な選びを受けているのです。そのことは同時に、自分にしかできない、神の愛を証しする特別な道が備えられていることを意味します。その道を全うした人を教会は聖人と呼びます。聖人とは何も罪を犯さなかった人のことを言うのではありません。罪を犯さなかった人を聖人と呼んだら、誰も聖人にはなれません。

 人間は神の前に弱くもろい、という言い方があります。でも同時に人間は強いのです。特に、自分だけに委ねられている賜物を見出して、それを成長させたとき、人間は精神的にも身体的にも無類の強さを発揮します。このことは昨年夏と、今年冬のパラリンピックを観戦していて強く感じ、そして人間の偉大さに感動しました。彼らの中には、体の不自由さの中に自分だけの特権を見出して、心に潜む神的な声と力に波長を合わせ、それをしっかりと聴きとり、自分の中に無限の力を見出した人も少なくはないと思います。

 イエスは今日も、そして永遠に「これはわたしの子、選ばれた者」とわたしたち一人一人に語りかけています。わたしたち全員神から特別に選ばれた者です。神がわたしたち一人一人だけに与えてくれた、無限の可能性という宝石を発見してください。わたしたちは弱い面もありますが、本当の自分を発見したとき真に強い者となるのです。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

トップページ | 全ニュース