「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)
今日のルカによる受難の朗読で、二人の犯罪人が登場しました。伝説によると、イエスをののしった犯罪人の名前はゲスタスで、回心してイエスに最後の望みを託した犯罪人の名前はディスマスだそうです。実は、このディスマスは列聖されて教会の聖人の名簿に名前が挙げられているそうです。列聖式は特定の人に関して、この人は確実に神の栄光に入ったことを宣言することで、通常はローマで教皇が宣言することによって行われますが、歴史上唯一イエスによって列聖されたのが十字架上で回心したディスマスです。というのは、イエスから「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)と宣言されたことが、彼は確実に神の栄光に入ったことを意味するからです。ですから彼は正しくは聖ディスマスです。
しかし彼はうらやましいですね。亡くなる直前のたった一言で天国に行ったどころか、聖人にまでなったのですから!時々、亡くなる直前に洗礼を受けたり、長い間回心しなかった人が、秘跡にあずかることを天国泥棒と皮肉る人もいますが、ディスマスの回心は天国泥棒のありがたさを述べているのではないのです。それは、人は信じたときに救われるのであり、イエスと出会ったときが恵みのときであることを意味しているのです。ですから、死ぬ前に秘跡にあずかればそれで天国にいけると安易に考えて、怠惰にしているとその秘跡にあずかるチャンスも失うことになります。死ぬ前に死の準備をしても遅いのです。それは元気なうちから準備しなければならないのです。人は20年かけて成人式を迎えます。それならば、死の準備もそれくらいの年月をかけて準備しましょう。なぜならば、死は人生の千秋楽だからです。
ところで、イエスをののしったゲスタスはどうなったのでしょうか。ディスマスは回心して聖人となった。それでは、イエスをののしったゲスタスは地獄に行った…?しかしこう短絡的に考えてはいけません。教会は列聖式によってある特定の人が確実に神の栄光に入ったことを宣言しても、ある特定の人が確実に地獄に落ちたなどということ宣言したことは一度もないのです。救いは神秘です。神が人をどのような方法で救いに導くかは、神のみぞ知ることで、わたしたちは神の協力者として、最後まで罪人の回心を祈り続けなければならないのです。
しかし、わたしにはディスマスとゲスタスが、二人の人間というよりも、同じ人間の二つの側面というふうにも見えるのです。わたしたちはゲスタスのように神を呪ったり、ディスマスのように自己を反省して神に立ち返ったり、生涯そのことの繰り返しです。でも生涯の最期にはイエスのように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言いたいものです。
最後に再びゲスタスのことについて。彼はディスマスから「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエスに最後の望みを託します。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と。そして彼はイエスから楽園を約束してもらったわけですが、その話を横で聞いていたゲスタスはディスマスにたしなめられて反省し、「そうか、確かに俺も悪かった」と言い、彼もイエスに「俺のことも忘れないでくれ」と最後の望みを託します。そして彼もまたイエスによって「あなたもまた今日わたしと一緒に楽園いる」と言ってもらえたと、福音書には書かれていませんが、このように想像しながら福音書を読むことも、全ての人の救いを望む神のみ心にかなっていると思いますよ。
(赤波江 豊 神父)