「イエスは死者の中から復活することになっている」(ヨハネ20:9)
復活の信仰は、教会の信仰の中で中核を成すものですが、イエスの他の倫理的な教えと違い、非常に難しいものです。何故ならば、私たちはまだイエスのように死を経験していませんから。死の彼方には何か大いなるものがあるに違いないと信じていますが、まだそれを見ていません。その私たちの今の状態は、ちょうど夜明け前の曙の状態に譬えることができます。曙とは夜の闇が終わり、周りが少しずつ明るくなる状態を言います。間もなく太陽が昇るのは紛れもない事実です。しかし私たちはまだ太陽を見ていない。
別の角度から考えると、例えばこの宇宙はバランスを保ちながら成長し続けています。宇宙は循環しながら誕生と死を繰り返しています。生命に寿命があるのはそのためです。但し、生命のエネルギーは死によって消えるのではなく、それは宇宙のエネルギーと同化して、再び新たな生命体に宿る準備であり、新たな生命への回帰です。このことを教会では死と復活と呼んでいます。死があるからこそ生命のエネルギーは不滅で永遠なのです。一人一人顔も違えば、性格、個性も違うように、与えられた寿命もそれぞれ違いがあります。問題はどれだけ満たされた人生であるかということです。イエスは33歳で墓に入りました。
この世界は二元的なものから成っています。闇と光、雄と雌、暑さと寒さ、主観と客観、内面と外面、肯定と否定、入口と出口、そして誕生と死など。そしてこの二元性が人間の本性の基礎になっているのです。アメリカの思想家エマソンは、この世界には「代償の法則」というものがあると言いました。この世界で、自然で、そして人生で何か失ったものがあれば、必ずその代償として、それと同等かそれ以上のものが神から与えられます。また反対に何かを得たのであれば、その代償として他のもの失わなければなりません。神と自然は独占や例外を望まないのです。何事においても発生のみ、消滅のみということはないのです。今までの人生で多くの犠牲を払ってきたと思ったのなら、実はそれ以上の恩恵も受けてきたのです。自分の長所と思っていたことが却って自分を苦しめることがあり、また反対に自分の欠点に救われなかった人もいません。私たちの真の強さは弱さから生い茂ってくるのです。例えば、親しい人の死に接して、それは喪失以外の何ものでもないと、しばらくは絶望の淵に立たされても、やがて亡くなった人の思いでは自分の人生の導き手、道しるべ、守り神であることを知るようになります。それはまず、イエスの弟子たちが経験したことでした。
一つの幸せの扉が閉じられるとき、神は必ず新たな幸せの扉を開いてくれているのです。しかし多くの場合、私たちは閉じられた扉にばかり目が行き、新しい扉に気づかないことが多いのです。しっかりと目を凝らして見つめましょう。私たちが何かを犠牲にしたのなら、神は必ず、それと同等かそれ以上のものを与えてくださっているのです。大きな希望を持って新しい扉を開きましょう。私たちは復活したイエスと同じように、もう古い墓にはいないのです。
(赤波江 豊 神父)