「わたしは彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ10:28)
永遠の命とは何でしょうか。永遠の命は神秘で、実は、私にもまだよく分かりません。でも、「私は永遠の命を信じます。何故なら、私には永遠なるものへの憧れがあるからです。」(ヘレン・ケラー)この「永遠なるものへの憧れ」は日々の小さな生活の積み重ねの中から生まれてきます。永遠とは時間の長さのことではなく、時の概念を超えたことを言います。この時を超えたもの、それは人間の心です。心は何十年も前のことを呼び覚まし、遠い将来を思い描きます。時は過ぎ去るとよく言います。確かに、時は風のように過ぎ去るように見えながらも、実は心に積もってゆくものなのです。人生は大きな砂時計のようです。砂時計は、時の経過を上部の砂が減ることで表しながら、同時にその砂は音を立てずに下に積もっていきます。この砂時計のように、時は過ぎ去りながらも、心に積もり続けるものなのです。時の流れの中で経験したこと、今日出会った人、今日見た景色、今日感じたこと全てが砂時計の砂のように、しんしんと積もる雪のように、わたしたちの心に積もり続けて人生を織りなしながら、「永遠なるものへの憧れ」を形成していくのです。この心に積もったことは、普段眠っていることが多いのですが、必要なときにはしっかりと目を覚ましてくれるのです。「雪」という三好達治の詩があります。
太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ
わずか二行の詩ですが、しんしんと雪が降り積もる北国の冬の中にも、何か温もりを感じさせてくれる詩です。太郎と次郎を眠らせたのは誰でしょうか。母親でしょうか。雪は何を意味するのでしょうか。母親の愛情でしょうか。自由に解釈できますが、今の私には、太郎と次郎に表される人間を眠らせたのは神で、雪は時の重みを意味しているように思えるのです。人間が眠っているうちに、即ち知らず知らずの間に、あらゆることを経験させてくれた時の重みは、人間の心に積もり続けてゆく。だからこそ、私は今日のこの一日を自分の一生の全てと思って、この瞬間、瞬間に心を込めて人生をしっかり紡ぎながら、「永遠なるものへの憧れ」を膨らませていきたいと願っているのです。
(赤波江 豊 神父)