「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)
私たちは無数の記憶の中で生きており、無数の記憶によって人格が形成されてきました。記憶は人間の体の一部であり、そして精神性の全てです。あの弱かった弟子たちを立ち上がらせたのは、聖霊によって奮い立たされたイエスの記憶です。私たちは永遠の命については信じ希望を持っていますが、まだおぼろげにしか分からない。しかし確実に言えることがあります。それは、記憶は残るということです。やたらと死んだ後のことを想像しながら生きるのはよくありません。大事なのは自分が死んだ後、どのような記憶を残すかということです。記憶は普段眠っていることが多いのですが、例えば私たちが何か大きな困難に直面したとき、ある記憶、例えば亡くなった親の一言などを思い出し、それによって再び勇気と希望を持って歩むことができた経験があり、反対に突然悲しい記憶がよみがえり落ち込んだ経験もあります。私たちは自分がこの世の生涯を終えた後も、後に続く人を生かすことができるし、また生かさなければならないのです。私たちはイエスのように死んだ後聖霊を送ることはできませんが、よい記憶によって残された人に愛の霊を送ることはできます。よい記憶は人生の道標(みちしるべ)です。「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える」(ヨハネ14:27)とイエスは弟子たちに言いました。私たちもしっかりと残さなければならないものがある。それはよい記憶です。私たちはこの言葉を後に続く人たちのためにこう読み替えて残しましょう。「私はよい記憶をあなた方に残し、私のよい記憶を与える。」後に続く人への最大のプレゼント、それはよい記憶、そしてよき死です。
「人は生きたように死んでいく」とよく言われます。感謝して生きてきた人は感謝しながら亡くなりますし、不平不満で生きてきた人は不平不満で亡くなります。よき死を迎えるためには、よき生を生きなければならないのですが、そこにはかなり個人の主観が入ってきます。あの人にとってはよき生はこうだったとか、ああだったとか、皆違います。あるキリスト教系病院のホスピスの医師の言葉です。「私が2500人近くを看取った中で感じることは、よき生とはやはり前向きな人生ということ、それから周りに感謝できるということ、この二つに集約されるような気がしてならないのです。物事には必ずプラスとマイナスの面がありますが、物事のプラス面をしっかり見た生き方をしてこられた方々、そういう方々の生は、やはり前向きでよき生なのだろうと思うのです。それから感謝はとても重要なキーワードです。家族に対して、周りの人たちに対して、最後に「ありがとう」と言いながら、そして自分も相手からも「ありがとう」と言ってもらいながら生を全うできるのも、よき生だと思うのです。そのような生を全うできる人を、私は人生の実力者と呼んでいるのです。」
よい記憶=プラス思考×感謝の心 これで後に続く人に愛の霊を送りましょう。
(赤波江 豊 神父)