5月29日 主の昇天
赤波江神父の黙想のヒント

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」(使徒言行録1:9)

 今日は主の昇天の主日です。主の昇天とはイエスが目に見えない姿となって決定的に御父のもとに帰ったことを意味します。伝統的なイエスの昇天を描いた絵画、例えばイタリアの画家ガロファロの「主の昇天」では、聖書の文学的な表現に従ってイエスが大空に浮かび、弟子たちや人々が驚嘆して見上げる様子が描くことによって、イエスが人々から離れ、御父のもとへ帰る姿が強調されています。来週は聖霊降臨の主日ですが、弟子たちはイエスが目に見えない姿となった後、聖霊の働きを受け、初めて生前のイエスの言葉と行いの意味を理解し、その後力強い宣教者となって世界中に福音を宣べ伝えて行きました。同じように、子どもが親のことを本当に理解するのは、親が死んで目に見えない姿となったときかも知れません。弟子たちは、イエスが見えない姿となった後、イエスのことを理解して成長していったのであれば、私たちにとってもそれは同じで、少し寂しく感じるかも知れませんが、私たちの人生の道行として、また子どもの成長のためにも、このことをしっかり受け入れましょう。

 ところで、一般社会では人が亡くなることを、「帰らぬ人になる」という言い方をすることがありますが、私たちはこのような寂しい言い方は決してしません。私たちは帰らぬ人になるのではなく、人生の旅路の後、帰るのです。どこへ帰るのかと言いますと、私たちを派遣してくれた天の御父のもと、魂の故郷へ帰るのです。ですから、教会では人が亡くなることを帰天と言います。イエスは御父から遣わされ、御父のもとへ帰りました。私たちもイエスと同じように神からこの世に遣わされました。一般に遣わされた人は、その使命が終わった後、派遣した人のもとに帰ります。もし派遣された人が、その使命を終えても派遣した人のもとに帰らなかったら、場合によったら、それは追放とか、放浪とかと呼ばれます。魚のサケでさえ産卵のため生まれた川に帰ります。それならば私たちこそ御父の家、魂の故郷へ帰らないはずがありません。マラソン走者が42,195キロの長い道のりの中で最も力を入れるときを、ラストスパートと言います。そろそろ人生のラストスパートに来ている方も多いと思います。だからゴールを目指して、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ人への手紙10:22~23)

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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