6月19日 キリストの聖体
赤波江神父の黙想のヒント

「すべての人が食べて満腹した」(ルカ9:17)

 満腹という言葉は幸せを表す言葉の一つです。しかし、満腹は心が満たされてこそ言える言葉です。腹という言葉は胃袋だけではなく、心も含みます。食事をして幸せを感じるのは、どういう時でしょうか。食事をするときの心の状態は、体にも大きな影響を与えます。良くない心の状態での「やけ食い」は、時々体調不良をもたらします。仮にご馳走を前にしても、夫婦喧嘩をしていれば子どもは食べようとはしません。反対に、一見質素に見える食事でも、家族が皆で笑いながら食べるならばそれは本当のご馳走です。美味しく食べるあなたの喜びが私の喜びとなり、私の笑顔があなたの笑顔となる。食事を楽しく分かち合う時、同時に心も分かち合っているのです。本当のご馳走は素材によるのではなく、そこに喜びと平和があるか否かによります。

 今日のパンの奇跡の場面を私は次のように想像しています。そこには疲れた大勢の人々を思いやるイエスの愛が満ち溢れており、弟子たちは先ずお年寄りや子どもを優先してパンを配り、次に一般の人、そして最後に弟子たちとイエスがパンを食べたと。そこには、嬉しそうにパンを食べる一人の子どもを、同じように嬉しそうに見つめるイエスのまなざしがあった。イエスは尋ねた。「美味しいか」子どもは答えた。「うん、美味しい」と。群衆はパンを食べながら、同時にイエスの愛に心が満たされた。愛があったから胃袋も満たされた。これが本当の満腹です。

 このパンの奇跡の話は、家庭や教会で時々再現されます。教会や家庭でパーティーを催したところ、予想に反して大勢の人が来た。これは困ったなと思いながらも、楽しく会話しながら食べていたら皆満足して、結果的に食事も残ってしまったという経験があると思います。少ない食事で皆満腹し、しかもなぜ残ったのか。そこには喜びがあったからです。

 「足りないものを嘆くのではなく、今あるものを大いに喜ぶ。それが真の賢者である。」と古代ギリシアの哲学者エピクテトスは言いました。孔子も「足るを知る」との教えを説きました。今与えられたもの、そして与えられた家族に感謝し、そこに喜びを見出すこと、これは宗教を越えた人間の幸福のスタートラインです。

 今日の黙想のヒント:私たちが満たされたいのは胃袋ではなく、心である。愛と喜びがあれば、わずかなものでも充分である。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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