「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」(ルカ10:42)
今日のルカ福音書におけるマルタとマリアの話は、別に奇跡物語ではなく、律法学者などとの論争でもなく、私たちの家庭にもよく見られる日常生活の一コマです。特に女性で二人姉妹の方なら、昔家庭でこのような経験があり、今日の福音にも共感をおぼえると思います。おそらく姉と思われるマルタは、イエスをもてなそうとしてせわしく立ち働いていましたが、気が付いたら妹と思われるマリアの方は、イエスの足もとに座って話を聞いているだけで何もしようとしない。それで、いささか苛立ちをおぼえて、「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください。」この言葉は、今でもどこかの家庭から聞こえてきそうな声ですね。それに対してイエスはまず、「マルタ、マルタ」と優しく繰り返した後、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と諭します。
しかし、この最後のイエスの言葉に納得がいかない方は多いのではないでしょうか。「マリアは良い方を選んだ」のなら、マルタがしたことは良くなかったのか、という疑問がわいてきます。客をもてなそうとするマルタの態度は言うまでもなく大切です。しかし、マルタとマリアが二人とももてなしのためにせわしく立ち働いていたのなら、イエス一人をポツンと寂しい状態に置くことになります。日本人は「おもてなし」という言葉が好きです。この言葉は、かつて東京オリンピック開催が決定される前のプレゼンテーション時、滝川クリステルさんが指で「お・も・て・な・し」と表現し、その映像をなつかしく覚えている方も多いと思います。もてなしとは、単に料理などを提供するだけではなく、客に寂しい思いをさせず、話し相手になることもまた大切なもてなしなのです。実は私も経験がありまして、以前何度か家庭集会などで第一部の祈りや分かち合いの後、さて第二部のお茶の時間に移ろうとした時、全員が台所に行って賑やかなおもてなしの準備の声が聞こえてくるのですが、私の方はというと、応接間に一人ポツンと取り残されたという経験があります…。
これはさておき、今日の福音書でマリアがイエスの話を聞くことができたのは、マルタの働きがあってのことであり、マリアの姿はもてなしとは何かということを教えてくれます。この話は、どちらが正しくて、どちらが間違っているというような、優劣の問題ではなく、どちらも必要なのです。私たちにはマリアとマルタが必要なのです。マリアのように神の言葉に耳を傾け、マルタのようにそれを実行に移す姿勢です。人間が二つの肺で呼吸しながら二本の足で歩き、二つの手を合わせて祈るように、私たちにはマリアとマルタが必要であり、この二人を切り離して考えることはできないのです。今日の福音書には書かれていませんが、イエスはきっとマルタにもこう言ったと思います。
「マルタ、あなたも良い方を選んだ。」
(赤波江 豊 神父)