8月7日 年間第19主日
赤波江神父の黙想のヒント

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 (ヘブライ人への手紙11:1)

 8月6日から15日まで平和旬間です。現在ウクライナ問題で世界は緊迫していますが、ウクライナだけではなく、1989年ベルリンの壁崩壊によって独立した旧ソ連邦の国々も再び大きな危機に直面しています。例えば、バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアの三国は「バルト三国」と呼ばれていますが、この三国がたどった歴史は、国境を接する大国ロシアからの侵略の繰り返しでした。近代から現代に至っても、バルト三国はソ連に突如占領され、民族の独立どころか、思想言論の自由は否定され、知識人や独立論者はことごとく粛清されたのでした。そうした中で、1989年8月23日バルト三国の人々は、自由、民主主義、民族自決を求め、「自分たちの民族の未来は、自分たちの手の中にしかない」と叫んで、バルト三国がそれぞれ600キロの国境を越えて、タリン、リガ、ビリニュスと200万の人々がお互い手を取り合って史上最大の「人間の鎖」を築いた出来事は、「バルトの道」と呼ばれ、現在ユネスコの世界記憶遺産に登録され、現代史の重要な一部となっています。

 そのバルト三国の一つ、リトアニアには世界無形文化遺産「十字架の丘」があります。その起源はポーランド人とリトアニア人が占領国ロシアに対して蜂起した(1831年の11月蜂起、及び1863年の1月蜂起)ことに始まります。しかしこの蜂起はロシアによって制圧され、処刑された反乱者やシベリアへ流刑された人たちを悼んだ人たちが、一つ一つ十字架を持ち寄って祈ったことに始まります。その後リトアニアはドイツ帝国の崩壊により1918年独立し、「十字架の丘」は平和や独立戦争で亡くなった人のため祈りをささげる場所となりましたが、1940年ソ連の侵攻を受け再び苦難がはじまりました。

 杉原千畝がリトアニアの領事として命のビザによって2139人のユダヤ人を救ったのもこの頃です。1940年7月18日の早朝、閉鎖間際だったリトアニアの日本領事館前に、ヒトラーの迫害を逃れた多くのユダヤ難民が殺到して、日本経由で第三国へ出国する通過ビザを求めてきました。杉原領事が日本政府に問い合わせたところ、「条件を満たさない者にビザを発給してはならない」という返事でした。日本政府に従うべきか、ユダヤ人の命を救うべきか苦悩の末、彼は一か月間にわたって日本の通過ビザを発給し、2139人のユダヤ人を救ったのでした。しかもそのビザは全て彼の手書きだったのでした。しかし彼は帰国後、外交官として政府に無断でビザを発給した責任を問われて外交官を免職となりました。彼の行動が再評価されたのは、1968年8月、イスラエル大使館から彼のもとに電話があり、やがてニシュリと言う名のユダヤが彼のもとを訪れて、ボロボロになったパスポートを見せ、「あなたのおかげで私たちは救われた」と告げたことに始まります。実は、杉原千畝に助けられた多くのユダヤ人が、感謝を伝えるため彼の所在を探していたのですが、なかなか見つけることができなかったのでした。実に命のパスポート発給から28年後のことでした。

 さてリトアニアは1944年、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連邦の支配下に入りました。1990年にソ連邦の崩壊とともに独立を果たすまで、リトアニア人たちは、この丘に行き十字架をささげ祈ることで、非暴力による抵抗を示していたのでした。その間、ソ連政府は3度にわたってブルドーザーでこの十字架の丘を破壊しようとしましたが、リトアニア人の信仰まで破壊することはできなかったのでした。1993年教皇ヨハネ・パウロ二世はこの十字架の丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のために祈る場所であることを世界に告げました。現在、この十字架の丘はリトアニア最大の巡礼地であり、今も多くの人が平和を願ってここで祈りをささげています。満たされた心一つで神のもとへ帰りましょう。

 今日私たちは、このウクライナの隣国リトアニアの苦難の歴史を思いながら、今日のヘブライ書を次のように読んで、ウクライナの人々のために祈りましょう。

 「信仰とは、望んでいる事柄(ウクライナの平和)を確信し、見えない事実(ウクライナの完全独立と国の再興)を確認することです。」

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

トップページ | 全ニュース