8月14日 年間第20主日
赤波江神父の黙想のヒント

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない、言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:51)

 何と恐ろしいイエスの言葉でしょうか。この平和旬間、平和について考え、祈っている私たちにまるで挑発するかのような言葉です。他方、イエスご自身「平和をもたらす人は幸いである」(マタイ5:9)と確かに言いました。イエスの言葉には矛盾があるのでしょうか。このためには、当時の時代背景を見る必要があります。

 イエスの時代、ローマ帝国には「パックス・ロマーナ(Pax Romana)」、即ちローマの平和という言葉がありました。紀元前27年の皇帝アウグストゥスの即位から紀元180年の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死去までの約200年間、帝国に戦争はなく繁栄していました。このことを人々はローマの平和と呼んでいました。しかし、この繁栄の背景には、多くの奴隷の犠牲、一部の特権階級による富の独占、モラルの低下があったのです。当時の記録や遺跡、壁画などから、当時の人々の贅沢と快楽の生活をうかがい知ることができます。人々は飽きることなく世界中から美食を求め、同性婚は普通に行われ、残虐な行為を見世物として楽しんでいました。例えば、剣闘士とは殺し合いをさせられる奴隷のことだったのです。このような状況を人々は平和と呼んでいたのです。従って、当時ローマ帝国の支配下にあったイスラエルにもこの影響は少なからずあったのです。イスラエルでも一部の権力者階級が富を独占し、大多数の人々は貧しさにあえぎ、罪人とされた人たちは人間的な扱いも受けられませんでした。

 このような時代の人々に対してイエスは、「あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない、言っておくが、むしろ分裂だ」と警告したのです。どんな掟や法律、儀式、制度よりも大事なのは人間一人一人であり、イエスのようにその一人一人に対して純粋に無条件に愛をもって接するなら、周囲の人、家族からさえも誤解受け、更には分裂さえも避けることはできない。イエスは自分の道が十字架の道であることを知っていました。しかし、それは自分だけの道ではなく、自分に従う全ての人の道であることも教えたのです。

 このイエスに倣ったアンティオキアの司教イグナチオの殉教は、当時の世相を鋭く反映しています。現在ローマ観光のシンボルといえば円形競技場のコロッセオですが、当時はスポーツ競技だけではなく、残虐な行為も行われていたのです。例えば、当時禁止迫害されていたキリスト者を捕らえて、コロッセオに入れ、そこに飢えたライオンなどの猛獣を放ち、その猛獣がキリスト者を追い回して食べる有様を、数千人の観衆が拍手喝采しながら娯楽として楽しんでいたのです。司教イグナチオもそのようにして殉教したのでした。彼は亡くなる前、ローマのキリスト者に手紙を残しています。

 「私は獣を通ってこそ、神に到達することができるのです。私は神の穀物であり、キリストの潔きパンとなるため、獣の歯で挽かれるのです。世が私の体をも見なくなるとき、そのとき私は本当にイエス・キリストの弟子となるでしょう。こういう道具(獣)よって私が神への犠牲とされるよう、私のためキリストに願ってください。火でも十字架でも獣との戦いでも、何でも私の身に降りかかるのがよいのです。私の願いはただ、イエス・キリストの御許に到達することだけなのです。」(イグナチオのローマのキリスト者への手紙4~5章)

 この司教イグナチオは迫害されている当時の教会に、「キリスト教が世に憎まれるとき、なすべき業は説得ではなく、偉大さを示すことなのです。」(同3章)と伝えています。この言葉は、今年に入って大きく混迷している世界情勢の中で、戦後77年間戦争を経験せず、平和だと思い込んでいた日本と日本の教会への大きなメッセージでもあるのです。

      (赤波江 豊 神父)

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