「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後のなる者もある。」(ルカ13:30)
今日の福音の結びの言葉を聞くと、まるで、うかうかしていると人に追い越されてしまうというような、ウサギとカメの話を連想する人もいるかも知れません。しかし、後の人が先になり、先の人が後になる話はそのような競争原理について論じているのではなく、大きく変化する時代の中で、それまでの考え方を変えるヒントを示しているように思えます。
ある実業家が印象深いことを語っていました。彼は今まで経営について様々な決断を迫られてきましたが、彼が言うには、正しかった決断は全てマイナスの決断、即ち捨てる決断でした。反対に間違った決断は全てプラスの決断、即ち捨てずに加える決断でした。捨てる決断とは今まで積み重ねてきたもの、それは今までの努力や苦労です。だからそれを捨てる時大きな痛みが計算できる。しかしそれを捨てて何が得られるかと言うと、それは計算できない未来のもの。計算できる今までの痛みを捨てて、計算できない未来のものを得ようとするのだから、当然周囲から反対もされる。
新しいものを取り入れるためには、古いものを捨てなければならない。まず、古いものを捨てて、場所を空けなければ新しいものは入ってこない。だから順調な時には捨てられないから、ためこんで保守的になり進歩がなく、やがてダメになる。しかし、失敗して今までの努力や苦労を捨てざるを得なくなれば、もう失うものは何もない。だから新しいことを始めようという気になって、場合によったらそれは成功へとつながる。
これは、あくまでも実業家の話ですが、聖書を振り返ったとき、このような「狭い戸口から入る」(ルカ13:24)逆説が生きていることに気づかされます。一粒の麦が死ななければ多くの実は結ばない(ヨハネ12:24参照)、貧しさの中に豊かさがある(マタイ5:3参照)、弱さの中に強さがある(コリントの信徒への第2の手紙12:10参照)、など。結局、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない(ルカ5:38参照)、即ち、新しい考えを受け入れるためには、古い心を捨てて新しい心を用意しなければならないのですね。古代中国の思想家荘子も「坐忘」(ざぼう)という言葉で、新しいものを取り入れるためには、まず古いものを捨てよと教えています。
教会も人間の体と同様生きた細胞から成っています。人間の体に新しい細胞が生まれるためには、古い細胞は死ななければなりません。教会には多くの修道会、団体、運動体がありますが、時代の変化とともに、このような組織が解散、消滅することも時々あります。しかし教会の細胞(それぞれの時代によりよく生きたいという希望)が生きている以上、何かがなくなれば、必ず新しい祈りや活動のグループが生まれてくるのです。ですから、過ぎ去っていくものに固執するのではなく、新しく生まれるものを大事にすることが求められているのですね。イエスの警告を思い出しましょう。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいぶどう酒を欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカ5:39)
長引くコロナやウクライナ問題で時代が大きく変化しようとしている今こそ、教会もそれまで大事だと思っていた何かを捨てる決断が求められているのではないでしょうか。それは捨てること自体が目的ではなく、新しいものを受け入れ育てるためにです。
(赤波江 豊 神父)