「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:11)
今日の福音の一節は分かりやすいのですが、あまり自分のこととして感じている方は少ないのではないかと思います。例えば短絡的に、高慢にしていると、いつか突き落とされ、謙遜にしていれば、いつかいいことがある。あるいは、自分は謙遜かどうか分からないが、少なくとも高慢のつもりはない、などと考えている方も多いのではないでしょうか。でも今日は視点を変えてお互いを振り返ってみましょう。
日本には伝統的に建前としての謙遜があり、本音では別のことを思っているという精神性が生活の中で深く根ついています。しかしそれは聖書が述べるへりくだり、謙遜ではありません。聖書が述べる謙遜とは、人間は神の前に弱くもろいのだ、そうであれば、それは自分だけではなく、周囲の人たちも同じように弱くもろいのだ。人は悪いのではなく弱いのだ、人は弱さの故に罪に陥るのです。このような欠点だらけの自分を神が受け入れ、赦し導いてくれているのなら、それは自分だけではなく、周囲の弱い人も同じように受け入れ、赦し導いてくれていることが分かります。このように、神の前における謙遜は、同じ弱さを持った人への思いやりへとつながっていくのです。人への思いやりは、同時に自分も周囲の人から思いやりを受けているという感謝へとつながっていくのです。
しかし、感謝というものは、ありがたいと思うだけではなく、その思いを同じ気持ちで人に返して初めて感謝が成り立つのです。感謝が成り立つためには、自分の人生を人のために使うことです。人生とは私たちに与えられた持ち時間のことです。つまり人のために人生を使うということは、人のために時間を使うことです。今の時代、一見世の中悪いことばかりのように見えても、それでも社会が動いているのは無数の善意の人の働きがあるからです。そのほとんどの人は、キリストのことも、聖書のことも教会のことも知らない人たちであり、そのような人たちとの触れ合いを通して、世の中には心底からの親切を示してくれる人、本当に温かい心の持ち主がいることを知り、そのような親切を心に取り込みながら私たちは今まで生きてきました。そして今度は人のために自分の時間を使うことによって、本当の感謝が成り立つのです。
人は、「誰かのために生きよう」と決意した時、同時にそれまで考えていた自分の限界を乗り越えることが出来る希望というものが生まれます。その希望が、医学的に言えば、体の中にある見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を活性化させるのです。そして、その希望も持ち続けることにより免疫力も高まり、生きる力がますます湧いてくるのです。私はこの点からも、「へりくだる者は高められる」と言いたいのです。
反対に、人の力を借りず何でも自分でする、やり遂げるということは確かに大事なことでしょう。しかし、人間として成長していくためには、人の助けを借りてそれに感謝するということはもっと大事なことなのです。また、何か問題があって、なかなか解決しない時には必ず共通した一つの症状があります。それは「人のせいにする」ということです。「人のせいにする」ということは、周囲で多くの人が善意で、そして無償で支え合って生きている中での調和を乱す最大の原因です。人のせいにして批判しても何の解決にもなりません。そうではなく、それに対して自分はどうあるべきか、自分は何ができるのか、全てを自分に置き換えてみないと何も解決しません。そもそも聖書によると、アダムはその罪を神からとがめられた時エヴァのせいにし、エヴァは蛇のせいにしました。(創世記3:9~13)そこから人間の苦しみが始まりました。
人生の中には、自分のせいでないのに苦しみに直面しなければならないことが何度かあります。それを人のせいにして、恨みながらマイナス感情で生きるのではなく、自分の心をいつも細やかにケアしながら、どんな状況でも幸せを感じられる心を育みましょう。美しいと感じる能力、美しさを知る能力を養うことが幸せへの道なのです。人を恨みながら生きるエネルギーがあるのなら、その同じエネルギーを人の幸せのために使った方が自分自身もどれだけ幸せでしょうか。
「高ぶる者は低くされる」とイエスは言いました。私は、この「高ぶる」という言葉の背後には、悪いことがあればすぐ「人のせいにする」という、人間の悪への傾きが潜んでいるような気がしてならないのです。
(赤波江 豊 神父)