9月11日 年間第24主日
赤波江神父の黙想のヒント

「悔い改める一人の罪人については、大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)

 星野富弘という画家で詩人がいます。美しく繊細な花の絵に詩を添えた彼の詩画は多くの人に感動と勇気を与えています。しかし、かつて体育の教師であった彼は、クラブ活動で宙返りの模範演技中あやまって頭から転落し、首から下の自由をすべて失ってしまいました。1970年6月17日。24歳の時でした。彼にとって失ったものはあまりにも大きかったのでした。しかし神は人間から何かを奪うとき、必ずそれと同等か、それ以上のものを与えてくださいます。神は私たちの過去の扉を閉じたとき、必ず同時に新しい未来への扉を開いてくださっているのです。

 今日の福音でイエスは、失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨の譬えを述べています。普通、私たちは何かを失った時、失くしたものと同じものを返してほしいと神に願います。しかし、神は別の形で、場合によったらそれは逆境とか、あるいは一見して不遇のような形で、より豊かに返してくれるのですが、私たちはそれに気づかないことが多いのです。神の恵みは姿を変えてやってくることが多いのです。

 彼もまた、ベッドの上に横たわり、寝返りをうつこともできず、ただ天井を見上げるだけの毎日でした。そのような中で自暴自棄になり、毎日食事をスプーンで彼の口に入れてくれていた母親の手がある日震えて、彼の顔の上にスープがこぼれてしまいました。このわずかなことで毎日のイライラが積もり積もっていた彼は、口の中のご飯粒を母親に向かって吐きだし、「チクショウ。もう食わねえ、くそばばあ。おれなんかどうなったていいんだ、産んでくれなきゃよかったんだ」と思わず叫んでしまいました。母親は黙って泣いていましたが、しばらくして、母親が彼の顔の上に止まった蠅を払ったおうとしたとき、その手が思わず彼の顔に触れたのです。その時の母親の湿った手の温もり、ざらついてはいたが柔らかな手の感触、この時初めて彼は母親の愛を知ったのでした。

 そんなある日のこと、同じ病室の少年が彼に寄せ書きを頼みにきたのです。彼が首から下が不随であることを知っていたのか、いなかったのか、少年は一生懸命頼み続けたのです。彼はついに決心しました。口にペンをくわえて字を書くという決心を。彼はわずかに首を持ち上げ、長い時間をかけて、ついに色紙の上に小さな黒い点を打つことができました。これが詩人で画家星野富弘のスタートでした。その2年後、同級生で牧師になった友人の影響で、1974年彼は病室で洗礼を受けました。

 彼が入院するまでの母親は、昼間は畑で四つんばいになって土をかきまわし、夜はうす暗い電灯の下で金がないと泣き言を言いながら内職をする、彼にとってはあまり魅力のない母親であったようです。しかし、彼が怪我で首から下が不随になることがなければ、一生この母親の愛に気づくことのない、高慢で不幸な人間になっていたであろうと、彼自身語っています。

 その星野富弘の詩をいくつか紹介します。

 「神様がたった一度だけ
  この腕を動かしてくださるとしたら
  母の肩をたたかせてもらおう
  ぺんぺん草の実を見ていたら
  そんな日が本当に来るような気がした」

 「いのちが一番だと
  思っていたころ
  生きるのが苦しかった
  いのちより大切なものがあると知った日
  生きているのが嬉しかった」

 「この道は茨(いばら)の道
  しかし茨にも
  ほのかにかおる花が咲く
  あの花が好きだから
  この道を行こう」

 「わたしは傷をもっている
  でもその傷のところから
  あなたのやさしさがしみてくる」

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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