「この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカ17:18)
10人の重い皮膚病を患った人たちが「私たちを憐れんでくださいと」イエスに叫び、彼らは癒されましたが、そのイエスに感謝するために戻って来たのは1人のサマリア人だけでした。10人が祈り求めて癒され、そのうち1人だけが感謝、このことは私たちにも何か心当たりがないでしょうか。私たちも日々イエスに「助けてください」「守ってください」と祈っていますが、もしかしたら、10の祈りの内、感謝の祈りは1だけかも知れません。確かに、イエスにとっても信頼して祈ってくれることは嬉しいことでしょう。でも、「助けてください」「守ってください」だけではイエスも物足りなさを感じていると思います。
例えば、皆さんに誰か親しい友人がいていつも「助けてください」「守ってください」とか言い続ける人がいるとします。信頼してくれることは嬉しいのですが、やはり「ありがとう」の一言を忘れてほしくないものです。イエスも私たちと同じ気持ちでしょう。しかし大事なことは、願いがかなってから感謝するのではなく、感謝をこめて願いをささげることなのです。そのことはパウロが強調しています。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)
しかし、この感謝ということは、言葉として意味は分かっても、実感がわかないという人は多いのです。あるいは、年を重ねて次第に感謝ということが実感できるようになった、という人も多いでしょう。この感謝を実感するために、多少の訓練と時間を要することがありますが、感謝の心はまず、人に対してへりくだる気持ちがないと出てこないものなのです。まずこれを学ばなければなりません。さらに大事なのは感謝の心をふくらませていくためには、心の中で感謝するだけではなく、実際口に出して表現しなければならないのです。「ありがとう」は口に出して初めて「ありがとう」になるのです。心の中で感謝しても、それは感謝にはなりません。中には、習慣的にありがとうと言ってもあまり意味がない、という人もいるかも知れません。しかしこの習慣が人格を形成するのです。習慣は第二の天性です。教会は伝統的に、亡くなる前に永遠の旅路の糧として、聖体などの秘跡を受けるよう勧めてきました。しかし私は、亡くなる前にこの秘跡と同時に、お世話になった人たちへの「ありがとう」を忘れてほしくないと思います。秘跡とともに命の与え主である神と、周囲の人へ心をこめて「ありがとう」と言うならば、ご聖体はその輝きを増すでしょう。私たちの人生最後の舞台を締めくくるためにも、日ごろからのご聖体と、「ありがとう」を周囲の人にささげ続けましょう。最後にもう一度言います。習慣は第二の天性です。
(赤波江 豊 神父)