10月30日 年間第31主日
赤波江神父の黙想のヒント

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」(ルカ19:6)

 今日の福音書の情景を想像してみましょう。ザアカイは徴税人で、単に興味本位でイエスを見に行っただけでした。彼はそのイエスに呼びかけられ、桑の木から降りて来て、喜んでイエスを迎えました。ここで質問です。なぜザアカイは喜んでイエスを迎えたのでしょうか。

 彼は当時罪人とされていた徴税人の頭で、おまけに金持ちでした。どうして徴税人が罪人扱いされていたかというと、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、人々は自分たちを支配していた敵国ローマ帝国に税金を払わなければならず、その税金を集める徴税人を「ローマの犬」と呼んで軽蔑していたのです。しかし実際、余分に取り立てたり、横領着服をする者も少なくはなかったと言われています。このような状況ですから、彼らはいつも人々から白い目で見られ、彼らに微笑みかける人もいなかったのでしょう。ザアカイにとっても同じで、人々から軽蔑され、白い目で見られ、微笑みかける人がいないのは当たり前のこととして毎日を送っていたのでしょう。

 しかし今日は違います。桑の木の下からイエスは突然ザアカイに呼びかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」そう呼びかけたイエスの表情は、きっと彼が今まで受けたことのない優しい眼差しだったのでしょう。だからその優しい眼差しを受けて、ザアカイも喜んでイエスを迎えたのです。ですから、ザアカイの喜んだ表情はイエスの優しい眼差しの鏡だったのです。ザアカイの回心のためには長い祈りも苦行も必要ではありませんでした。イエスの優しい眼差しと、愛情のこもった一言だけで十分でした。

 人間関係は鏡のようなものです。私たちは鏡に向かって微笑めば、鏡の自分も微笑むし、鏡に向かって嫌な顔をすれば、鏡の自分も嫌な顔をします。同じように誰かに向かって、「この人嫌いだ」という思いで接すると、それは必ず表情に表れ、相手もそのことを察知して同じ顔をします。反対に「この人好きだ」という思いで接すれば、相手もそう感じて同じ顔を返してくれます。話している時の相手の顔は、実は自分の肖像画なのです。私たちは生まれた時からこのことを経験してきました。生まれたばかりの赤ん坊はまだ話すことはできません。しかし親の顔をしっかり見ています。そして、「この親は僕のことを本当に愛してくれているのだろうか」問い続けています。その証拠に、親が笑えば赤ん坊も笑うし、親が怖い顔をすれば赤ん坊も泣きます。実に、赤ん坊の笑顔は親の笑顔の鏡なのです。そうして子どもは親から笑顔をもらって、次第に自分が幸せだと感じ、自分がこの世に生まれたことはいいことなのだ、と感謝するようになるのです。

 心の思いは必ず表情に表れます。私たちは決して自分を偽って生きることはできないのです。私たちもイエスに従って生きたいのなら、非常に単純な言い方ですが、偽りのない心と善良さ、人を尊敬しいたわる心、これ以外にありません。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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