11月20日 王であるキリスト(世界青年の日)
赤波江神父の黙想のヒント

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)

 十字架上のイエスは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と議員たちから笑われ、兵士たちからも侮辱されます。しかし、このときイエスが自分の身を守ったら、イエスは救い主ではなくなったでしょう。イエスは救い主だからこそ、自分の身を守らないのです。イエスは多くの奇跡を行いましたが、自分のためには何一つ奇跡を行いませんでした。自分のために奇跡を行ったら、それはもはや奇跡ではありません。イエスの生涯も、奇跡も、全て人のため、人の心に信仰、希望、愛をもたらすためだったのです。そのために命をささげました。

 今日は世界青年の日です。ギリシャの哲学者プラトンは、当時の老人たちに対して、「若者たちが、運動や、舞踏や遊戯をしている所へ出かけて行って、自分になくなった肉体のしなやかさや、美しさを若者の中に見て喜び、自分の若い頃の美しさや愛らしさを思い出しなさい。」そして更に、「それらの娯楽において、多くの老人を楽しませた若者を讃えなさい。」と語りました。しかし、青年たちの特徴は、大きなエネルギーと希望、しかし同時に未来への不安、そこから生まれる葛藤なのです。

 それを乗り越える一つの道は旅に出ることです。「知らない世界に出かけてみれば、知らない自分が見えてくる」という言葉があります。これは必ずしも遠くに旅行に出るという意味ではありません。見方を変えてみるという意味です。才能は誰の中にも無限に眠っていて、花開く瞬間を待っています。自分が何に向いているかは、ぶつかってみないと分からない。人生どこに道標があるか分からないのです。そのためには、まず読書をすることです。私たちが生涯で直接経験できることは、ほんの僅かなことで、その自分が経験できないことを、読書を通して学ぶのです。ですから、読書は知らない世界へ出かける、一種の旅なのです。

 「私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからだ。」と12世紀の哲学者シャルトルのベルナールは言いました。ベルナールはプラトンの哲学や思想を研鑽し、発展させました。彼は古典やその著者たちを巨人にたとえ、今を生きる者はその巨人たちの肩に乗ること、即ち古典やその著者たちを学ぶことでより多くのもの、より遠くの世界を見ることができると言ったのです。それは信仰の世界も同じです。私たちは過去の偉大な信仰者たちの肩に乗っています。私たちは彼らが大事にした聖書を始め、教会の伝統と教えをしっかり学ぶことで、より遠くのもの、今まで知らなかった遠くの世界に触れることができるのです。そして、神に命をささげたほどの信仰者の姿に触れ、自分にも命をかけて生きる道が備えられていることを知るのです。「殉教者の血は信仰の種である」(テルトリアヌス)

 また多くの人との出会いが必要です。端的に言って、人生とは出会いです。知識は、この情報社会にあって、あらゆるところから瞬時に取り込むことができます。しかし、人生を生きる真の知恵は、直接多くの人に触れなければ得ることができないものなのです。それは一人一人かけがえのない生き方として、人の中に息づくものだからです。決してネット上では得ることのできないものなのです。

 イエスはことごとく人のために生きて、自らの命をささげました。人は誰かのために生きようと思ったとき、それまで考えていた自分の限界を超えることができます。今まで考えもしなかったようなエネルギーが、自分の内から湧いてくるのを感じます。人のために生きるエネルギーは枯渇することがないのです。反対に、人は自分が何かしたくないと思ったとき、自分で自分の限界を設けようとするのです。

 青年たち、知らない世界に出かけてください。そして、知らなかった自分の素晴らしさ、自分の「楽園」(ルカ23:43)に気づいてください。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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