「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。」(イザヤ35:1)
伝統的に待降節第3主日は「喜びの主日」と言われています。主の降誕が近い、救いが近づいているという喜びをこの日典礼で祝います。クリスマスは主の降誕を祝うだけではなく、私たち一人一人に命が与えられたことを祝う日でもあります。普段、人形などには全く関心のない大人でも、クリスマスには馬小屋の幼子イエスを嬉しそうにのぞき込む光景がよく見られます。即ちクリスマスは、私たち大人を子ども心に帰らせてくれる、喜びのときなのです。だからクリスマスには、子どもがいなければならないのです。そして「尊い実り」(ヤコブ5:7)とは、今私たちが生きていることなのです。
しかしクリスマスを準備しながらも、同世代の友人知人が亡くなり、自分もあと何年生きられるのだろうか。これが最後のクリスマスなのだろうか。来年は桜が見られるのだろうか、などと不安が頭を横切る高齢の方も多いのではないでしょうか。人間年を重ねるとよく出てくる病があります。それは人間不信と自己嫌悪です。この病は被害妄想的なところがあります。家族のために必死で働いてきたのに、高齢になった途端邪魔扱いされる。鏡を見ると自分の老いた姿が映っていて、もう自分は家族のお荷物になっているのではないかと思うなど、まじめに明るく生きようと思いながらも、この二つの被害妄想に悩まされている人もいるかも知れません。
この被害妄想を乗り越えるためには、昔の楽しかった記憶に戻ることも大切なのです。高齢者になっても前向きに生きよ、それが元気の秘訣だという意見もあります。それも大切ですが、一方で昔の楽しかった記憶をなぞっていく方が、心理的な癒しの効果も高いと言われています。私たちは無数の記憶の中で生きています。その「記憶の引き出し」の中から楽しい、嬉しかった思い出だけを、例えば子どもの頃の楽しかった行事、クリスマスや正月などを取り出してみましょう。それらを思い出すときには臨場感あふれるように、ストーブやこたつのぬくもり、ケーキや温かい鍋料理の味、親の手の温もりまでも詳細に思い出してください。そうやって様々な楽しい記憶を咀嚼していくうちに、自分の人生まんざら捨てたものでもないと、次第に肯定的な気持ちになるでしょう。そのようなことを習慣化していくうちに、最終的に人間とは面白い、愛すべき存在なのだという温かい気持ちになるでしょう。もちろん生きていく上で辛いことは山ほどありますが、そのような記憶は引き出しの中にしまったままにしておけばいいでしょう。落ち込んでいるときには、案外普段のユーモラスな話しの方が力になったり、また偉人や賢人の格言より、日常生活のささいな思い出の方が自分を癒してくれることも多いのです。人間とは、面白い愛すべき存在なのです。
このことを大正時代の童謡詩人金子みすゞが詩っています。
こだまというのは山から投げかけた言葉が、そのまま返ってくる響きです。それは大自然の懐につつまれたような安心感を生み出し、私たちの心を優しくしてくれるのです。そしてこれは、良いことも悪いことも、投げかけられた思いや言葉に反応する万人の心なのです。一人一人のことを自分のこととして感じさせ、安心感を生み出し私たちの心を優しくしてくれる響きがこの詩にはあります。人間とは、面白い愛すべき存在なのです。
(赤波江 豊 神父)