「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)
クリスマスおめでとうございます。クリスマスはいいものですね。クリスマスは嬉しそうにお菓子をもった男の子や、大事そうに人形を抱いた女の子とともに、私たち大人を子ども心に帰らせ、楽しかった子ども時代に思いを馳せる、不思議な喜びのときです。だからクリスマスには子どもがいなければならないのです。
でも聖書が救い主の降誕について記しているのは、ごくわずかなことだけなのです。クリスマスに関する多くの事柄は、後の時代に人々が降誕について思いを馳せて考えてきたことなのです。例えば、教会は12月24日の夜、救い主の降誕を記念してミサをささげますが、聖書には救い主が真夜中に生まれたとは書いてありません。ただ夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いのもとへ天使が現れ、救い主の誕生を告げた(ルカ2:8~11)と書いてあるだけです。そこから、きっと救い主は夜のしじまの中に生まれたのだろうと、思いを馳せたのです。
また救い主は貧しい馬小屋で生まれたと語られてきましたが、聖書にそのような記述はありません。聖書は救い主が生まれた後、飼い葉桶に寝かされた(ルカ2:7)と伝えているだけです。普通飼い葉桶があるのは人間の家ではなく、家畜の小屋です。そこから、救い主はきっと馬小屋で生まれたのだろうと、思いを馳せてきたのです。
さらに、救い主を礼拝に来た東方の博士たちが3人いたとも聖書には書かれていません。聖書は博士たちがそれぞれ黄金、乳香、没薬をささげた(マタイ2:11)と伝えているだけです。そこから、きっと博士は3人いて、それぞれ黄金、乳香、没薬をささげたのだろうと、これもまた思いを馳せたのです。ちなみに、伝説ですがこの3人の博士たちにはそれぞれ、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前がついています。
クリスマスには教会に馬小屋が飾られ、子どもたちだけではなく、普段は人形に関心のない大人でも、馬小屋の幼子イエスを嬉しそうに見つめています。皆さんどんな思いで見つめているのでしょうか。
ある日私は電車に乗っていました。私の前には初老の少し疲れたような男性が座っていました。ふと気が付いたらその男性が笑っているのです。この人何か思い出し笑いでもしているのだろうか、気持ち悪いなあと思って、ふとその男性の視線の先をみると、そこには母親に抱かれ笑っている赤ん坊の姿があったのです。彼はその赤ん坊の笑顔を見て、一緒に微笑んでいたのです。その二人の姿はまるで、赤ん坊の中にいる神と、男性の中にいる神がお互い挨拶を交わしているかのようでした。これは普通によく見られる日常生活のひとコマです。でも普段仕事で疲れた男性に、その日ほんの一瞬でも、ささやかな幸せを与えたのはこの赤ん坊でした。私にとっても何か、小さなクリスマスを味わったかのような一日でした。
(赤波江 豊 神父)