1月15日 年間第2主日
赤波江神父の黙想のヒント

「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)

 ヨハネの目に、「”霊”が鳩のように天から降る」とはどのように映ったのでしょうか。これは単なる文学的表現なのでしょうか。今ほど科学技術が進歩していなかった当時、人々の霊感は今の私たちよりはるかに鋭かったという人もいます。昔から世界各地で聖母出現の話は多くあります。その真偽は別として、3歳くらいまでの子どもには霊的能力というか、「見えない世界」が見えるとよく耳にします。実際、ある家族で小さな子どもが、亡くなったはずのおじいちゃんやおばあちゃんが見えたとか、いないはずの動物が見えたとかという話は時々聞きます。大抵、家族の人は笑いながら話すのですが、私も何度もそのような話をうかがいながら、実際心の純粋な小さな子どもには、「見えない世界」が見えるのだろうと思います。ですから私は、世界各地で聞く小さな子どもたちや、迫害の極限状態にある人への聖母出現の話しも無下に否定はしません。もしかしたら私たちにも、幼少の頃聖母マリアや天使が現れてくれたのかも知れませんね。ただ覚えていないだけです。残念ながら、人は成長するにつれそのような霊的能力は、外的な環境から多くの知識や情報によって上書きされますので、本来感じるはずの至福が感じにくくなるのです。反対に、年配の方の中には、若い時には気が付かなかった、「見えない世界」の存在を感じ始める方もいます。

 よくパワースポットという言葉を耳にします。何かの理由で、強いエネルギーを感じる場所を、同じくエネルギーの強い人が探し当てることを言います。しかし誰もが同じように感じる訳ではありません。感じる人だけが、感じるのです。ある人は、会社で仕事を終えてバス停まで歩く10分の道が、一日の内一番祈れる時だと話していました。その人にとって、その10分の道がパワースポットなのです。私にもパワースポットがあります。それは大きな川の土手です。兵庫県なら、瀬戸内海に注ぐ加古川や武庫川、また日本海に注ぐ円山川などです。不思議と川の土手を歩き出すと心は神に向かい、感謝の心が溢れるのです。歩くこと則祈りとなるのです。川は私に霊的指導をしてくれる、第二の聖堂なのです。特に川上に向かって歩くのが好きです。川は山から流れてきますので、彼方に大きな山脈(やまなみ)が見えます。この山脈が祭壇で、降り注ぐ太陽は祭壇を照らすローソク。風にそよぐ木々は指揮者で、鳥のさえずりは聖歌隊。川面の水鳥は奉納係で、河川敷でサッカーや野球に興じる子どもたちは侍者。頬をくすぐるそよ風は香のかおり。そうやって、青草の重厚なカーペットの上を山脈に向かって歩くと、山脈の向こうでキリストが待っている。このように感じながら森羅万象に頭を垂れれば、悩んでいる自分が何だかずいぶん小さく見えます。

 皆さんも、どこか自分にとって清々しく感じられる、第二の聖堂を探してください。そこで感謝を伝えるだけ、それだけで良いのです。感性を研ぎ澄ましながら、この世界で自分が生かされていること、「見えない世界」を感じ取る。そうやって素直な心でありのままを見ましょう。 

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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