「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)
人はなぜ正しく生きなければならないのでしょうか。なぜ、人を傷つけたり、嘘を言ってはならないのでしょうか。子どもの頃、このような素朴な疑問をいだかれた方もいることでしょう。正しく偽りなく生きなければならないことは、家庭や学校、教会で教えられたからでもありますが、それ以前に人が本能的に感じる直観であって、これを良心の尊厳と言います。このことは、昔から日本でも悪いことをした子供に親は、「お天道様が見ておられる」(神様がいつも見ているのだから、決して悪いことをしてはならない)という言葉を使って注意し、また「正直の頭(こうべ)に神宿る」ということわざもあって、神は誠実な心をもって正直に生きる者を守っており、必ずそのご加護があると信じてきました。
人間には、なぜこの良心があるのか。その存在は科学的に証明されたものではありませんし、また全て科学的に立証されない限り真実ではない、存在しないということにはなりません。実際、科学的に立証されたものでなければ信じない、という科学信仰者でも、また人は死んだら何も残らないと公言する人でも、この良心という直観、即ち心の法に従って行動し、人が困っていたら気になりますし、自分がしてほしくないことは、人にもしてはいけないと思います。そして人が、複雑な人間関係の中で、この良心の声が聞き取りにくくなったり、心に余裕がなくなったりして、時々この良心の声に逆らって行動し、後で後悔するのは、この良心の尊厳が絶対的な法として人間の心を支配しているからであり、この中に人間は神の導きを見るのです。即ち、良心の声に逆らう者に後悔はつきものですが、後悔する自分の背後に、神のいつくしみを感じるようにすればいいのです。
「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」とイエスは言いました。しかしイエスは、決して私たちに完全無欠な清さを要求しているのではなく、弱さ、もろさを身に帯びながらも、「良心の声に従って、正しく生きることを願う人は、心の内に神を見る。」という意味にとらえたらいいと思うのです。そうして、可能な限りこの良心という道標に従って生きることが、私たちの人生を実り豊かで意味深いものにするのです。 「人間は、心の奥底に法を見いだす。この法は、人間が自らに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行い、悪を避けるように勧め、必要に応じて『これを行え、あれを避けよと』心の耳に告げる。つまり、人間は自分の心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。良心は人間のもっとも秘められた中心であり聖所であって、そこで人間は独り神とともにあり、神の声が人間の内奥で響く。」(第二バチカン公会議・現代世界憲章第16項)
時々、自分の子どもに、あるいは他の誰かに、かつて様々な理由で十分愛することができなかったことを悔やむ人がいますが、その心の優しさが大事なのであり、いつまでもその後悔に留まるのではなく、その後悔を別のエネルギーに変えて、今度は同じ助けを必要とする他の人に、その愛を注ぎ続ける「心の広がり」をイエスは私たちに求めているのです。
(赤波江 豊 神父)