2月19日 年間第7主日
赤波江神父の黙想のヒント

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)

 皆さんは日常生活の中で、「愛する」という言葉をどれくらい使いますか。でも実際はあまり使わないのではないでしょうか。非常に大事な言葉ですが、実際はあまり使わない非日常的な言葉ではないでしょうか。愛するなんて照れくさくて言えないという人は多いでしょう。口に出して言えば何かわざとらしい。でも本当は心のどこかでこの言葉に憧れている。それが愛ではないでしょうか。

 インドで救護所に運び込まれた男性をマザーテレサが世話をしていた時の話です。彼女は、男性の膿んだ傷口にわいているウジを見つけては、すぐに指でつまんで取っていくのです。その様子を見て男性は、「他のシスターや看護婦たちは、傷口のウジを見つけても医師を呼んでくるだけで、その医師もピンセットでつまみ上げるだけなのに、どうしてマザーは自分の指で取ってくれるのですか」と尋ねると、彼女は「どうぞ、他の人たちをゆるしてあげてくださいね。あの人たちは、あなたを愛そうとしているだけで、まだ本当に愛せていないのです。でも、今に愛せるようになりますから、それまで待っていただけませんか。」と彼女は答えました。即ち、本当の愛には自意識がないのです。頭の中で愛そうと思っている間は、まだ本当の愛には程遠いのかも知れません。愛そうとする意識は全くなく、ただ目の前で人が衰弱し、その傷口にわくウジが見えたとき、とっさに手が出て指でつまみだす行為に中に、イエスが私たちに望む姿があるのですね。私はこの愛という言葉を、よく絆という言葉に置き換えます。というのは、私たちは同じ魂を共有しているからこそ、お互いに人間としての絆を感じるのです。だから愛するという意識以前に、同じ人間としての絆を感じるからこそ、目の前に傷ついた人がいれば動かざるを得ないのです。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)神の愛には自意識がない。私たちもこの神に近づき、「あの人悪人、この人善人」と区別する目を捨てなければならない。それは愛するという意識さえも超えた、日本的に言えば「無私無我の心」という言葉で表現できるのではないでしょうか。

 マザーテレサとは全く肌違いの人生を歩んだ日本人の言葉も参考になります。元巨人軍監督の川上哲治は、努力ということについてこう言いました。「王とか長嶋は確かに素質もあったし、天才といってもいい。しかし、天才といっても努力しなければただの人だ。天才とは『努力する能力のある人』だと思う。人は皆努力していると思うし、人一倍努力しているとも思っている。しかし私に言わせればそれは嘘だ。努力に際限などないし、努力していると思っている間は、本当の努力はしていない。努力しているという意識が消え、ただ一心になって初めて努力していると言えるのだ。」

 天国を極めたマザーテレサの「愛」、野球を極めた川上哲治の「努力」、この二人は別の方向から同じことを言っているように思えます。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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