2月26日 四旬節第1主日
赤波江神父の黙想のヒント

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

 神によって創造された人間は、楽園で何不自由なく暮らしていましたが、神との約束を破ることによって楽園から追放され、神は「彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」(創世記3:23)即ち、人間は罪の結果楽園を追い出され「顔に汗を流してパンを得る」(同3:19)ために働かざるを得なかったことになりました。この聖書の箇所を根拠にしているのでしょうか、欧米人の中には労働は罰であるという考えをもつ人がいて、日本人のように労働から人生を学ぶという考え方は、何か嘘っぽく聞こえるという話を聞いたことがあります。しかし楽園追放の話は、人間はアダムの罪に始まり生涯罪を身にまとうことの表現であり、労働が罰であることを意味しません。

 仮にアダムとエバが罪を犯さず楽園にとどまり、神から言われたとおりにしていれば、いつまでも幸せであったかも知れません。しかしそれではその状態を当たり前のこととしてとらえ、何が真の幸福であったか理解することもなかったことでしょう。いつまでも楽な状態にいることを、少なくとも私は幸せとは感じません。幸せは人との関わりの中で、人の幸せが自分の幸せであると感じる生き方が、イエスが望む幸せであると私は思います。しかしそのためには多少の犠牲を払わなければならないことも事実です。何かを得ようと思うなら、何かを犠牲しなければなりませんし、反対に何かを失ったら、必ずそれに見合うものが与えられます。これが神の摂理です。神は罪を犯したアダムとエバを楽園から追放するとき、裸のままではなく「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(同3:21)からです。

 日本人は、主体と客体、人間と自然を厳然と峻別する欧米の自然観とは異なり、人間は自然と一体となって関連性を保ち、自然は支配する対象ではなく、むしろ自然の原理に従って自然と共生することを願ってきました。従って労働も自然との共生のサイクルで考え、そこに価値を置いてきました。労働は神聖なものですが、それを理解するためには、しばしば人間は大きな決断と犠牲を払わなければならない。しかも大きな決断は自分でしなければなりません。しかし、決断は人間の成長を促進する大きな原動力となるものです。人間は大きな決断を人生の中に持ち込まない限り、成長することはできません。人間は何か大きな決断をしたとき、目の前に様々な困難が待ち構えていることを知るでしょう。しかし誘惑や試練などに裏書された試行錯誤は、私たちが新しい生き方を身につけるための必須のプロセスで、人間の生き方の基本ルールでもあるのです。

 アコヤ貝は中に入った異物(核)を、あの美しい真珠に変える力があります。私たちも人生を飾る美しい真珠を生み出すためには、試行錯誤という異物が必要なのです。イエス自身荒れ野で誘惑と試練の試行錯誤を経て、大きな決断の後宣教活動に入りました。「人間というものは生涯にせめて一度『鬼の口』に飛び込む思いをしなければならない。そういう機会をもたずに死ぬのは恥ずかしいことだ。」と言った人もいます。まさにイエスは荒れ野で『鬼の口』に飛び込み、そこからイエスの真価が問われる生涯が始まりました。イエスの生涯は一種の賭けでした。そして人生の最後の土壇場で、もう誰の目にも勝ち目はないと思われた最後の瞬間、イエスが放ったシュートは敵(死)の間をくぐり抜け、ついに復活のゴールに入ったのでした。つまりイエスは苦しみの異物を復活の真珠に変え、勝利をもたらしたのでした。今でも天国ではイエスの勝利の余韻に浸っています。昨年のサッカーワールドカップのドーハの歓喜のように!

      (赤波江 豊 神父)

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