3月12日 四旬節第3主日
赤波江神父の黙想のヒント

「私が与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4:14)

 「私が与える水」とは何でしょうか。水は人間の生存に必要不可欠です。同じように、人間が精神的に充実して生きるために必要不可欠な水があります。そのヒントは第二朗読ローマの教会への手紙の「希望は私たちを欺くことがありません。」(ローマ5:5)という言葉に見出すことができます。私たちが生きるに必要とする精神的な水、それは希望です。それでは希望とは何でしょうか。それは大切な何かを行動によって実現しようとする思いです。確かに幸せは遠い世界ではなく、私たちの足もとにあります。でもそれで満足しきってしまうのではなく、頭を上げて周りを見渡したとき、自分にはまだ欠けている何かがある、或いはもっと何かできることがあるのではないかと気づきます。その大切な何かを行動によって実現しようとする思い、これが希望です。ですから希望はただ何かを待つだけではなく、絶えず私たちの人生に行動と変化を求めているのです。

 しかし希望と言っても、それが思い通りに行かないのが普通です。例えば職業に関して、希望した仕事に就くことができれば、それは確かにいいことです。しかし希望した仕事に就くことと、今その仕事に生きがいをもっているかは別のようです。例えば、生きがいをもって今の仕事に就いている人というのは、子どもの頃の希望を実現した人より、むしろ子どもの頃の希望が様々な理由で実現できなかったり、あるいは希望通りの仕事に就いたものの、当初自分が思っていた道ではなかったりして、何度かその希望を軌道修正しながら今の職業に就いている人の方が多いと聞いたことがあります。即ち、挫折や失敗などを経験し、乗り越えてきたという思いをもつ人ほど、現在の仕事に希望をもって取り組んでいるようです。最初の希望がかなわなくても、それを軌道修正しながら生きることによって、自分にふさわしい大切なものと生きがいに出会えるのではないでしょうか。この軌道修正のことを、一般に試行錯誤と言います。

 人生いろいろなことがあったし、失敗も繰り返してきた。でも今振り返れば、全ては生きるために役立った。人生無駄なことは何一つない。このような確信を持つ人は何歳になっても若々しく、希望をもっていつも何かに取り組んでいるようです。このような人は、サマリアの女に「水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と言われたイエスの渇きに後押しされているかのようです。反対に、無駄と失敗を恐れて生きる人は、何かに挑戦する気持ちも弱く、希望も薄らぎ行動範囲も狭くなります。

 また信仰や宗教など、何かしっかりと信じるものがある人ほど、将来に希望をもって生きている傾向が強いと言われます。信仰や宗教は死を乗り越える何かがあることを教えます。ですから希望することは、何かをしっかり信じていることに裏打ちされているのです。この点、日本の若い人たちは欧米などの若い人に比べ、将来に希望をもつ割合が少ないと言われていますが、その理由はここにあるような気がします。日本人の多くは魂の存在を信じていますが、宗教を問われたら、家の宗教を答えても、自分が何を信じているか明確に答えない人が多いのです。しかし、本当にしっかりと希望をもって生きるためには、自分の死生観を託することのできる宗教を見つけることが必要です。そうすれば、「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:42)という福音の言葉を通して本当の希望に出会えるでしょう。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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