3月26日 四旬節第5主日
赤波江神父の黙想のヒント

「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

 人は死んだらどうなるのか。人の魂はどのように残るのか。これは古代から現代に至るまで、万人が共通していだいている関心事です。古代の人々は自分たちが生まれ、死んでいく世界、自分たちを取り巻く自然に対して畏敬の念をいだき、そこに創造主である神の存在を直観していました。そして同時に、疑うことのできない魂の存在を知り、畏れ敬うようになりました。

 自然科学が人間の精神性に与えた影響は確かに絶大です。しかし、やがて人間は科学で解明できないことは何もない。科学で解明できないことがあれば、それは即ち存在しないことであるという科学信仰者も現れるようになりました。科学を少し勉強しただけなら人は無神論者になるでしょう。しかし科学を極め、その分野で大きな業績を残した人の中には、神の存在は否定できないという結論に至り、深い神への信仰者になる人も多いのです。

 しかし中にはトーマス・エジソンのように、この世のあらゆる発明研究を超えて、魂の研究にまで没頭した人もいます。彼は独特な死生観を持ち、「肉体は魂の宿り木であり、肉体が滅びた後魂は次の宿り木に移る」と信じ、それを証明するために実験さえ繰り返していたと言われ、死の概念すら超えて更なる野心を燃やし続けていたようです。確かに彼の情熱は、超自然的な現象に対する素朴な好奇心から出発したとは思いますが、実際は、彼は魂の研究を通して何かの真理に触れたかったのではないでしょうか。

 しかし科学で立証され五感で感じられる「事実」と、人間の第六感(心)でとらえられる「真理」とは異なります。そもそも魂や超自然的な現象は科学的研究の対象外であり、科学で立証される必要はないのです。要は、超自然的な現象それ自体に意味があるのではなく、そのような現象を通して受ける啓示、あるいは導き出される理念と真理こそが本質なのです。私たちの中には、あらゆることを科学で解明して五感で感じ取りたいという自分と、目に見えない神の存在や、亡くなった家族などの魂がいつも共にいて自分を見守ってくれていることを第六感で感じる自分が、矛盾することなく共存しているようです。そう感じながら、確かに人間にはあらゆることを知る力があるが、魂の問題に関して今は分からない、心で感じることしかできないと謙虚に神に向き合っていく姿勢が大事かと思われます。

 ラザロは一度死に、イエスによって再び命を得ました。しかしそのラザロもまたいつか病気か高齢で死んだことでしょう。ですからラザロが生き返ったことは、彼は単にこの世の寿命を少し延ばしてもらったにすぎないのです。しかしその出来事の中に、五感で感じることのできない、心でしか感じられない大事なしるしがあるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエスは言いました。人は死によって人生の旅が終わるのではありません。人生の旅というものは、肉体の死後も心でしか感じられない姿で永遠に続くのではないでしょうか。

      (赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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