「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(ヨハネ20:1)
イエスは、十字架上で亡くなった後、墓に葬られ3日目に復活しました。このことは、信仰宣言の核心ですが、私にはなぜイエスは3日間も墓の中に留まる必要があったのか、なぜすぐにでも、例えば翌日にでも復活しなかったのかという素朴な疑問が以前からありました。この3日間というのは私たちにとって何を意味するのでしょうか。イエスの死と復活のプロセスは日々私たちの中に流れており、困難を経験してこそ、立ち上がることの意味が理解できるのですが、それまで待たなければならないことが多い。この待つことが私たちにとって大きな試練、精神的な墓場であり、それが3日間の意味なのです。
かつて岡潔という世界的な数学者がいました。私は、この精神的な墓場の意味を彼の言葉から学びました。彼は、かつてある数学の大きな問題にとりかかった時、最初の3か月は全く解決の糸口が見えず、無力感と放心状態に陥ったそうです。その年の夏、友人のすすめで北海道に休暇に行き、そこでも研究を続けたのですが、やはり無力感と放心状態で寝てばかりの生活が続きました。ところが9月になったある日の朝食後、ソファーに座って何気なしに考えているうちに、考えが一つの方向に突然まとまり、数学史に残るような大発見をしたのでした。彼はこう述べています。
「全く分からないという状態が続いたこと、その後眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだった。種子を土に蒔けば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてから、かなりの間おかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だから、もうやり方がなくなったからと言って、やめてはいけないのであって、意識の下層に隠れたものが、徐々に成熟して、表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時は、もう自然に問題は解決している。」
インドの宗教家で哲学者のクリシュナムルティは、「ものごとは努力によって解決しない」という不思議なことを言いました。しかし、「ものごとは努力によって解決される」というメンタリティーの中で生きてきた私たちには、この言葉の意味が分からず、ただ結果の方ばかりに目が行きすぎて、ただ待つことに耐えられない、それは場合によったら一種の罪悪感ですらあるのです。しかし、何をしてもうまくいかず、一種の無力感や放心状態にあるときというのは、実は意識の深層下で何かが熟成、発酵しているときなのですね。何ごとも努力は必要です。しかし懸命に努力した後の熟成期間も必要なのです。解決策というものは根本的にやってくるもの、与えられるものだからです。聖書はこれを聖霊の働きと呼んでいます。
イエスの死後、弟子たちも自分たちが何をしていいのか分からず、無力感と放心状態にあったことでしょう。実は、弟子たちもまた精神的な墓場にいたのでした。弟子たちは復活したイエスと出会うために、実は何の努力もしませんでした。反対に、復活したイエスの方が会いに来てくれて、弟子たちの信仰もまた復活したのです。イエスは死後墓に3日間留まりました。私たちもまた努力が実らず、墓に留まらなけなければならない3日間というものがあります。それは努力した後、何の実りも見えない試練の期間ですが、実はそこで既に何かが熟成、発酵しているときなのですね。大事なのは、頑張ったけど何の実りもなかったからといって、すぐ投げやりになってはいけないのであって、そういうときにこそ大きなチャンスが目の前に迫っているのです。
(赤波江 豊 神父)