4月16日 復活節第2主日
黙想のヒント

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)

 週の初めの日の夕方、復活したイエスが弟子たちに現れたとき、トマスはその場に居合わせませんでした。そこで、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)と頑固に言い放ちます。恐らくトマスは、「どうして、よりによって自分がいない時に主は現れたのか」とか「自分はのけ者にされたのか」などと思い込んだのでしょう。

 しかし彼は、自分の身に起こったこと、即ち「自分がいない間に主が現れた」ことではなく、それを「自分がのけ者にされた」と受け取り、そのことで傷ついているのです。彼は自分がのけ者にされることを、自分で選択したわけです。私たちは周りの環境に左右されやすいのです。私たちは自分の身に起こったことで傷ついていると思っていますが、実際はそうではなく、その出来事を自ら受け入れ、容認し、選択することで傷ついているのです。

 私たちは、天気が良ければ気分も良くなり、反対に雨が降れば気分もふさがる。しかし、心がしっかりしていれば、天候に左右されず行動できます。同じように、心に確固とした信仰や信念があれば、周囲や社会の天候、即ち噂や評価に左右されず行動できます。エレノア・ルーズベルト(フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)「あなたの許可なくして、だれもあなたを傷つけることはできない」という言葉を残しています。

 しかし確かに、このことは「言うは易く、行うは難し」でしょう。もし誰かが長い間、自分の身に起こった苦労を人のせいにしてきたのであれば尚更のことですが、今、正直に深く「今の自分があるのは、全て自分が選択して呼び込んだ結果だ」と言えなければ、「今日から新しい道を選択して、新しい人になる」とは言えないのです。

 不信仰の使徒トマス一人のために、イエスはわざわざ現れてくださいました。これが見失った1匹の羊ため、99匹を野原に残して探しに行く羊飼いイエスの姿です。(ルカ154~7)しかし、この復活した主の出現は、決してトマス一人だけを特別扱いするのではなく、トマスに対するイエスの関り方が、私たち一人一人への応答であるのです。見失った1匹の羊を探しに行く羊飼いの姿も、決して99匹を無視するのではなく、野原に残された99匹の羊たちも、いつか自分が迷ったとき、羊飼いから命がけで助けてもらえるという信頼感を得ることになるのです。このことは、例えば学校でも、1人の難しい立場の子どもに対する教師の関り方が、99人の何の問題もない子どもの心をつかむことになるのです。「あの先生は、難しい立場の1人の子どもに必死で関わってくれた。あの先生は信頼に値する先生だ。いつか自分が困難に陥ったときも、きっと助けてくれるはずだ」という信頼感を、99人の子どもたちは得ることになるからです。

 トマスは、不信仰の使徒ではなく、実は失われた1匹の羊だったのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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